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AWDLP210-002
Contents
    
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桃井富範個人のページ
或る修道士達の最期
                                 桃井 富範


 原初《はじめ》に神は天地を創造給《つくりたま》えり。
 地は混沌として闇は虚空を覆いたり。
 我が僕たちよ、出でよ
 神斯く言い給いければ麗しき十二の両翼を背にし天使長ルシフェル、ならびに優美なる一対《いっつい》の翼翻《ひるがえ》ししその同胞《はらから》ミカエル率いたる天使の群れ顕れぬ。


天使、神の命に従いて世界を形造れり。
光生まれ、闇と光分かたれり。
水生まれ、地と海分かたれり。
草木生まれ、水に根付き、地に芽ぐみたり。
命生まれ、神、水には自在に泳ぎたる魚、暁には自在に飛びたる鳥、地には地を這う蟲と自在に走りたる獣をば配されり。


 此処に於いて神、天使の像《かたち》の如くして土より男と女一対の人を創造給えり。
 天使、美味たる果樹の茂りたる園造り、以て人の住処《すみか》とす。
 神、人を祝して言い給いけるは、我、汝等に天使の加護と永久《とこしえ》の命を与えん、地と水に生くる草木、水の魚、空の鳥、地の蟲と獣を治めよ。汝等は園の全ての果樹を食むを得るなり。なれど、王冠《ケテル》、洞察《ホクマー》、理解《ビナー》、慈悲《ヘセド》、公正《ケプラー》、 美《ティフェレト》、永遠《ネツァー》、反響《ホド》、基礎《イエソド》、王国《マルクト》、知恵《ダート》を司る樹木は我が霊力宿りし生命の樹《セフィロト》にして食むべからず、永久の命をば失わん。
 神と天使の恩寵を受け給いし男と女、斯くして無垢安息の日々を過ごせり。


 されど、或る時天使の長ルシフェル、人を訪れて、知恵《ダート》の実を食むべしと言えり。
 男と女、神言い給いけり、汝等生命の樹《セフィロト》食むべからず、永久の命をばわ失わん、と言えどもルシフェル応えて言うには、汝等知恵《ダート》の樹の実を食めども永久の命失わず、善悪の知恵を知りて神の力を得るのみなり。
 男と女、躊躇えど遂には彩色形容美味しく芳香馥郁たる知恵《ダート》の樹の実を食せり。


 されば、知恵を得し男と女、仲睦まじかったるが、男と女なるを知りて、離れ隠るる。
 神、男と女相離れ隠れたるを知りて、汝等何故隠れたるやと問いければ、羞じればなりと答えけり。
 神、男と女に言い給いけるは、汝等羞じを知りしは知恵《ダート》の実を食みたるべし。
 汝等命を破りしに因りて、我、汝等より生命の樹《セフィロト》を奪いて我と天使の加護を解き、永久の命を奪わん。汝等土より造りたれば死して土に還るべし。
男は食を得るに、女は産むに苦しむを罰とす。
 斯くして神の怒りに触れし男と女、荒野へと投げ出されり。
 男と女永久の命と楽園をば失いてやがて土に還れども、子ら生まれ出で、長じ、子らも又、子らをもうけて子々孫々を増やせり。


 されど知恵を得し彼等、純真無垢ならざればすなわち情欲より虚言を発し、斯くして疑惑と密事生まれり。
 疑惑と密事を旨とす人の間《はざま》にては嫉妬の情生まれ、遂にはおぞましき禍《わざわい》となりぬ。
 禍を恐れたる人々、平和の為とて掟をば作り、破りたればおぞましき制裁を加えたり。
 人々、互いをば恐れ恨みて、人と人、家と家、村と村もが諍いけり。
 斯くして知恵を手に入れし人々の世は不和のうちに過ぎたり。


 かたや神と人に知恵を与えし天使長ルシフェルと同胞《はらから》たるミカエル、戦争いぬ。
 七十二柱《ななじゅうふたはしら》の悪魔従えし天使長ルシフェルの勢いたるや神をも凌がんとする程なりぬれど、ミカエル、天界の宝物庫より授けられし、ルシフェルをも貫く剣持てついにこれを打ち倒し、深き地の牢獄へ幽閉《とざ》したり。

                                                  『創世記』


     プロローグ

 砂嵐の中、緋色の袖無外套《マント》に包まれた人影が、駱駝《らくだ》を伴い、オアシスに造られた街へ辿り着いた。
 いや、正確には以前には街だったらしき場所と言うべきだろう。砂漠の黄砂を防ぐ為、街を取り囲むように植えられた木々はその大半が薙《な》ぎ倒され、かつて宝石のように透明な麗しさを誇った街は風に舞った砂に視界が遮られていた。
 人影は、路面に敷かれた石畳と記憶を頼りに中心街へ進みながら、身体から砂を守る為顎から鼻の上部までを覆った布と、ぐるりとしたつばと帯のついたいかにも頑丈そうな帽子の隙間より光る、皺に刻まれた、しかしながら力強さを保った瞳で四方を見渡す。
 砂嵐が弱まるわずかの時間に姿を現した、破壊された石造りの家屋、そこかしこに転がる遺骸を、その鋭い眼は逃さなかった。
「遅かったか……」
 どうやら老輩の男らしき旅装束に包まれた人影は布越しにしわがれた声で呟《つぶや》く。
 事実、中央へ向かえば向かうほど建築物や人の活気が増えていった盛況の街は、今や人気のない、近付けば近付くほど廃墟と遺骸の増える巨大な墓場と化している。
 以前は賑やかな繁華街だった場所に辿り着くと、老いた男は比較的損傷の少ない民家の前で足を止め、駱駝を繋いで中へと入り、砂塵《さじん》除けの布を取り払うと、ベルトに括り付けていた錫《スズ》と鉛で出来た携帯用水筒《スキットル》を手にして蓋を空け、琥珀色の液を体内に流し込んだ。
 この時、彼に近づく人が居たならば、その体中から漂う鼻を刺すようなアルコール臭にもかかわらず、彼が素面同然でいることを驚いたに違いない。
 その面貌は皺に覆われ、それでいながら年配とは思えぬ生気を放っている男の鋭利な目は、乱雑に荒らされ、やはりいくつもの死骸が転がる室内を見極める。
「どうやら生き残りは在らぬようじゃが……なに、わからぬて……」
 老いた男は駱駝を繋ぐ際にその背中から取り出した小さな袋から、それぞれに様々な色彩を帯び鈍い光を放つ石を十個ほど取り出すと、砂にまみれたテーブルを振り払い、ばら撒いた。
 それは鈍い綺麗な輝きを放っていたが、それにしても何の役に立ちそうにもないただの玉石だった。だが、男がテーブルの石に手をかざし、
「生命の樹《セフィロト》より放つ天界の光よ、脈打つ鼓動の在処《ありか》を我に示したまえ」
 と唱えると、玉石は眩く輝いて宙に浮き、船のような多角形を描いて独特の法則で互いの玉石が光でつながれ、淡い半円形の光がその玉石より発生し、その光は中心に街全体を包み込むように広がって行き、やがて消滅した。
 老いた男は光の広がっていく最中に一瞬目を光らせ、暫《しばら》くしてから、
「どうやら一人生き残りがおるようじゃ。この気配は……子供か?ここから遠くないな。位置からすると、確か教会……ん?どうやら地下のようじゃ」
 考えを纏《まと》めるように一人呟き、半円形の光と共に輝きを失った石を慣れたように袋にしまい込んだ男は建物を後にする。
 独り言の通り、教会に老いた男が駱駝を連れて到着するまで長くはかからなかった。
 だが、以前に訪れた土地の記憶が無ければ彼ですらその場所が教会であると認識することは出来なかったに違いない。教会の存在したであろう場所は、一見しただけではそこに建物が存在していたことが信じられないほどに崩壊した、石塊の山となっていた。
「ここじゃな」
 そう言うと、老いた男は再び駱駝の背中から今度は取っ手の先端に大きな水晶の付いた木製の杖を取り出し、その杖を振りかざした。
 次の瞬間、水晶の杖が輝き、老いた男の立っている場所から教会のある一点に向かう道に沿う部分に横たわる石の残骸が砂となり、その砂は宙に舞い、町に吹きすさんでいる砂嵐の一部となって消えていった。
 こうして老いた男が消えた磊礫によって出来た道の先を進んでいくと、地下へと続く階段が現れた。続いて水晶に手を添えて何やら小さく詠唱すると今度は水晶が光を放ち始め、その光を頼りに老いた男は地下へと進んで行く。
 階段の先、地下室の小部屋で老人が光る水晶をかざして目にした光景はおぞましいものだった。
 数十の累々《るいるい》とした死骸が地下室を埋めるかのように横たわり、ある死体は体を切り裂かれ、ある死体は火事の後がないにも関わらず焼け焦げており、またある死体の上半身は何かに喰いちぎられたかのように消失している。地上に吹き荒れる砂嵐に晒《さら》されない分、死体の様相は生々しく、鼻をつく血の匂いが部屋を充満していた。
「これは酷い……。大勢で隠れていたようじゃが……むごいのう」
 老人が言葉を発した瞬間、死体の山の一角からガサゴソッと何かが動く音がした。音のした方向を振り向くと、背後から切り付けられたらしき祭服を纏った聖職者とおぼしき男が背中から血を流し、うつ伏せになって斃れている。
「おお、ラティヌスよ。こんな形で再会するとは、まだ若いのにのう……。惜しい奴をなくしてしもうた……」
 無念を噛み締めながら老人が目を凝らすと、絶命した司祭の亡骸に抱かれるようにして、水晶の明かりとは異なるぼんやりとした光が浮かび上がっており、抱きつく少年の手が見える。
「邪悪な存在から姿を消す光……神の御加護か。そういえば、司祭には子息が出来たと風の噂に聞いたが……」
そう呟くと老人は鈍い光を放つその場所へと歩を進めた。


     一日

 部屋の窓から差し込む暁の光と小鳥のさえずりで目を覚まし、少年は気だるそうに粗末なベッドから起き上がると、
「ふわーっ」
と粗末な肌着姿で大きくあくびをし、しばらくしてからそそくさと着替えを始めた。
 シメオンの一日が始まる。
 眠りまなこをこすりながら簡素な木作りの戸を開いて家を出る。空を見上げると、雲一つない。
〈今日もいい天気だ。〉
 爽やかな陽の光で眠気を覚まし、シメオンは満足そうに辺りを一望する。
周囲には見渡す限りの畑や草原、そして絶えまざる馬車や人々の歩みによって生み出された道に沿って点々と民家が位置している。遠くには村に唯一の教会と、その近くに集まったいくつもの商店に大工などの職人、酒屋等から成る村の中心地が小さく映った。
 シメオンは家から程ない鶏小屋へと向かう。
小屋の扉を空けた瞬間に朝を察知した数十羽の鶏達はけたたましく叫び声を上げはじめ、扉の外に設置された柵で囲まれた庭へと我先に飛び出していく。シメオンは庭に餌を撒くと、鶏達が餌に群がっている間に、
「ちょっとごめんよ」
 と言いながら鶏小屋に入り込み、小屋に敷いた藁の中から素早く卵を探し出して持っていた籠の中へと、卵が割れないように気を使いながら詰め込んでいく。
 続いてシメオンは鶏小屋の隣に設置している羊小屋に入り、背丈ほどの高さにある採光の為に設けた窓を明け、慣れた手つきで乳を搾り始める。
一時間ほどで数十頭の羊から乳を搾り終えたシメオンは、仕切り壁を挟んで羊小屋の隣にある馬小屋へと入り、馬に飼い葉を与え、小屋の外に連れ出し簡素な荷馬車を取り付けると、荷台に羊乳の入った二つの大きな甕《かめ》を置き、手に先ほど拾い上げた鶏卵の入った籠を持って教会のある方向へゆっくりと馬を牽《ひ》いていく。
 土の道路をしばらく歩き、神父は駐在しておらず、祝祭日や村人が亡くなった際だけ遠くの街からやって来る小さな教会を通り過ぎる。質素な教会の門の上に三角形と逆三角形の六芒星に十字を配した教会の紋章が暁光を浴びて鈍く輝いている。
六芒星が生命の樹を表し十字が原罪によって失われた知恵《ダート》の力を象徴していることをシメオンは父から教えられていた。
 シメオンがそこで一瞬立ち止まり、指で信仰の伝統とされる六芒星十字をきり祈りを捧げてからパン屋へ到着した時には、早朝地平線の側に位置していた太陽が、かなり高くまで登っていた。
「おはようございまーす、シメオンです。ミルク持ってきました」
シメオンが扉を叩きながら大きな声で叫んでからしばらく経つと、扉が開いて中から丸々と太った人の善さそうな中年の店主が現れた。シメオンは手際よくミルクの入った甕を店内へと運び込み、空になって置いてある甕を引き取る。
「これ、お代といつものパンにチーズ。パンの量サービスしておいたよ」
 店主はシメオンに一斤程のパンとひとかたまりのチーズ、それに銀貨一枚と銅貨数枚を手渡した。
「ありがとう、パン屋のおじさん」
 お礼を言って店を出ると、次にパン屋から数件先にある雑貨店の扉を叩く。
「おはようございます。シメオンです。卵持ってきました」
今度は年寄りの婦人が出てきた。
シメオンが卵の入った籠を渡すと、彼女はそれを籠から店に置いてある入れ物に移し変え始める。
「若いのに一人で偉いわね。頑張ってね」
 シメオンの母は彼を産んですぐに亡くなり、父も二年ほど前、シメオンが十四の時に流行り病でこの世を去っていた。
「ありがとう、おばあさん」
 銅貨数枚を受け取ったシメオンは馬を連れて家へと帰りながら、父を失ってからの数年間を振り返る。
〈大丈夫さ。父さんは僕に仕事のやり方を教えてくれた。そりゃ人手も足りなくなってそれまでと同じようには行かないけれど、村の人達も助けてくれているし、自分一人を養っていくことぐらいは出来るさ。〉
 家へ帰ったシメオンは、火打石と消し炭を使ってかまどに火をおこし、取り分けておいたミルクを温め、卵を焼き、商店で受け取ったパン・チーズと共に食事をする。
 空腹を満たした食後のひと時は、シメオンにとって起きてから初めてのくつろぎの時間だが、いつまでもくつろいでいるわけにはいかない。仕事はまだ沢山残っている。
 シメオンは再び家を後にして、今度は自らの畑へと出掛ける。
 畑は決して広くなかった。
 いや、正確に言えば元々は広くそこで収穫する麦を主な収穫としていたのだが、父の死後畑を維持するのが難しくなってしまったため、畑の面積を縮小して自分が一年に必要なパンだけの麦と、比較的手のかからない数種類の果樹を植えたのだ。
作物の育ち具合を見て回る。作物の育て方や害虫への対処法は父からみっちりと叩き込まれていた。
「こっちの木はあと十日もすれば収穫できそうだな。……よし、異常なし、と」
 じっくりと畑の具合を見て回ってから頷き、シメオンは再び小屋で鶏と馬に食事を与えると、今度は羊を連れて牧草地へと向かう。シメオンは父が亡くなってから数頭だった羊の数を増やし、縮小して余った畑を牧草地としたのだった。
シメオンが器用に指笛を鳴らすと今までシメオンの後を行進していた羊達が思い思いに牧草を食べ始める。
 こうして夕日が沈むまでの間放牧が続くのだが、シメオンは草地に横たわりながら過ごすこのゆったりと流れる時間が好きだった。
〈羊の数をもう少し増やそうかな。それなら牧羊犬を手に入れなきゃな。〉
 シメオンはこんな事を考えながらうとうととしていると、次第に太陽が傾き始め 空がオレンジ色に染まっていく。
 黄昏に気付いたシメオンが物憂げにもう一度指笛を吹くと、たちまち方々に散らばっていた羊達がシメオンのもとに集まってくる。
 こうして羊達の数を確認したシメオンは、もとの道をひきかえして羊達を小屋に戻し、鶏と馬に一日最後の食事を与えて家へと帰り、仕事を無事に勤めた達成感を感じながら食事を済ませた。
 それから暫くして満腹になったシメオンは自らの瞼《まぶた》が重くなりつつあるのを感じて、上着を脱ぎベッドへと潜り込もうとしたが、ちょっと思いとどまり、ひざまづいて両手を握りしめ祈りを捧げる。
「天上の神よ。私が今日一日を無事送れた事を感謝いたします。願わくば明日もあなたが天上で成すが如く恵みを地に降らせ給わらんことを」
 子供の時母に習った祈りを済ませてベッドに入り込んだシメオンは意識を失いながらぼんやりと考える。
〈そういや、今人間達を魔物が襲っていて、辺境にあるオアシスの街が全滅したって昔父さんが言ってたな。神様から預言者の力を与えられた人だけが悪魔と戦うことが出来るんだったっけな。だけど、預言者も悪魔も見たこともないし、僕が生まれる前に起こったっていう魔物との大戦の時にもここは被害一つ受けなかったらしい。
僕は村から出ることなんてないし、こんなことを思い出すのも眠りにつく前のお祈りの時ぐらいだな……。〉
 シメオンは自らに思いがけぬ波乱の運命が待っていようとは露ほども知ることなく、こうして安らかな眠りについたのだった。


     覚醒

「ん、んーっ……、あーっ……。何だよ、うるさいなあ……」
 真夜中、いつもなら静かに寝静まっている筈の家畜のけたたましい鳴き声にシメオンの心地よい眠りは断ち切られた。
不機嫌そうに重たい瞼をこすりながら窓の外を見やると、心持ちか夜にしては窓の外が明るい。
「なっ、何だ!?」
異常な事態は一気にシメオンの眠気を吹き飛ばしたらしい。慌てて着替えを済まし、素早く玄関の扉を開けて外を眺めると、教会や商店のある村の中央が炎と煙に包まれている。
周囲に立ち込める煙のお陰で建物近辺の様子はよく見えない。
「火事だ!」
 相互扶助の共同体として成り立つ村において中心街が無くなることは自分達の生活や仕事が危機にさらされることを意味する。街のみんなも心配だ。
 シメオンは叫ぶやいなや、後先も考えず全速力で火事の現場へと走り出した。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

 シメオンが村へ駆け出したその時である、二つの人影がシメオンの住む村へと通じる険しい山道を登っていた。
「ローレンスよ、もう夜も更けてしまったがここを登りきれば村が見えるはずじゃ。この山道が村へと通じる最短の通り道とはいえ、馬も通れぬ道、よくぞここまで頑張った。もう少しじゃ」
 光を宿した水晶の木杖と、滅び去ったオアシスの街に現れた時よりは幾分深く刻まれた皺に囲まれた暗闇を照らす力強い眼は、深くかぶった帽子の下から危険な夜旅の道連れに語りかけた。
「はい、バハクク様」
 ローレンスという名の水晶の光を反射して暗闇に映える純白の僧衣を纏う、美しく清らかな顔立ちをした少年は丁重に答えた。
「ようやく見つけたぞ、『無原罪の御宿り』を……。どうやら年が若いためじゃろう、反応が弱かったようじゃが……。辿り着く村のどこかにいるぞい」
 バハククと呼ばれた、緋色のマントと旅装束を身に付けた男がローレンスに声を掛けながら蒸留酒《スピリッツ》の入った携帯用水筒《スキットル》に手を掛けたその時である。
 今まで延々と続いていた登り道が下りに変わる山道の分岐点に到達すると同時に麓の様子が開け、二人はシメオンが目にしたのと寸分違わぬ炎上する村の中心地を遠く目にした。
「しまった、村が襲われておるわい。やはり奴等も居場所を掴んでいたか…」
 口惜しげにバハククがローレンスを振り向いたその時、その瞳には燃え盛る教会の姿が映し出されていた。
「これはまずいわい……」
バハククがトラブルを予感した次の瞬間である。
「天界の使者よ、聖なる翼を与えたまえ!」
 ローレンスの美しい唇から流れた詠唱とともにその姿はふわりと浮き上がり、瞬く間に空高くへ達し、山頂から煙と炎に包まれた村の方角へと一直線に飛び去った。月夜に輝く白い僧衣を羽のようにはためかせ飛翔するその様は、まさに翼を持つ天使そのものだった。
「馬鹿者。相手の戦力も把握していないというのに露骨に飛び込んでいく奴がどこにおる!あの忌まわしい記憶が目覚めてしまったか…。やはりあやつに生命の樹《セフィロト》の儀法を教えたのは間違いじゃったか……」
 そう愚痴たバハククは、何やら霊妙な言葉を呟くと、一度に数十歩の距離を跳躍しながら闇の山中を信じられない速さで駆け下りていった。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

 息を切らせ、無我夢中で村の中心地に駆けつけたシメオンを待っていたのは轟音と共に燃えさかる家々の焔《ほのお》だった。燻される煙の為十歩先ですら容易に見通すことが出来ず、生存者の有無もはっきりとしない。
「どうすりゃいいんだ……」
 鎮火するどころか火の勢いを押し留めることも、近付くことすら絶望的な火災の前でシメオンはしばし立ち尽くしていたが、やがて燃える建物を取り巻く煙の隙間より、誰かの顔貌がちらと覗いた。
「パン屋さんですか!大丈夫ですかー!」
 黒煙より現れた面容が、朝ミルクを届けパンをサービスしてもらった馴染みのパン屋のそれだと察したシメオンは、はらはらしながら大声で叫び、立ち込める煙の中、鼻腔の前に片方の肘を突き出すようにして、もう片方の腕でその肘を固定して煙から身を守り、果敢に黒影のもとへと救助に駆け寄った。
 だが、黒煙の先でシメオンが目にしたのは、恐怖に顔を歪めたパン屋の主人の首から引きちぎられた空に揺れる頭部と、その生首を片方の手に握った、人間の倍ほどもあろうかという、人型の怪物であり、もう片方の手にはその血塗られた双刃だけでシメオンほどもあろうかという巨大な斧が握られていた。
 恐怖に慄いたシメオンの瞳が怪物の禽獣の如き容貌に視線を移した時、怪物の両眼もシメオンを捉える。
「あっ……、あっ……」
 シメオンは驚愕と恐怖によって小さく震えながら、まるで金縛りに遭ったかのようにその場に凍り付く。
 怪物は怯えるシメオンの姿に気づくと、まるで子供が菓子を頬張るかのようにパクッと手にしていた頭部を口に放り込むと、頭蓋の破砕音を周囲に響かせながら手にしていた大振りの斧を振り上げる。
〈もう駄目だっ、殺される!〉
 シメオンが自分の人生の終わりを覚悟したその時である。
「生命の樹《セフィロト》より放つ天界の雷《いかずち》、不浄を滅《めっ》す!」
 空から流れる美しい声と同時に周囲がまばゆく光ると、一閃の稲妻が振り上げたその斧より巨大な怪物の全身を直撃した。
 怪物は地に斃れ、やがておぞましい色彩を帯びた無数の水泡となり、その存在を失った。
 呆然と立ち尽くすシメオンが飛来した上方に目を向けると、そこには月光に白い僧衣を輝かせ中空に漂う麗《うるわ》しい姿があった。
「ここから離れよ、少年」
 優雅に地面に降り立つとローレンスは凛とした口調でシメオンに呼びかける。煙の奥にはうっすらとではあるがしかしはっきりといくつもの巨大な影が浮かんでいる。
「あっ、はいっ」
 ようやく我に返ってシメオンは答え、おずおずと火に燃える建物から走り去る。
〈あ、あれが魔物か……ということは、今その化け物を倒したあの人は……預言者!?〉
 こうして窮地を脱したシメオンだったが、自分を救った僧衣の少年の安否が気になり、燃える家々からそう遠くない木々の蔭から元いた場所を振り返る。
 すると、先程の少年が大挙した骸骨達と対峙している姿が目に入った。
〈いくらなんでもあれじゃ多勢に無勢だ……。〉
 シメオンは心細い気持ちで僧衣の少年の身を案じたが、次の瞬間、僧衣の少年が振り上げたその掌から光線が飛び出し、それは中空に舞い上がると四方に散らばり、巨大な直立する獣を襲った。
 神聖なる力が邪な生き物に作用したのだろうか、瞬く間に怪物が地に伏し、無へと帰して行く。
 シメオンが驚愕と共に凝視した視線の先にあるシメオンは、その時軽く安堵の溜息をもらしたが、ローレンスが落ち着く間もなく煙の中から先程の数倍はあろうかという屍の大軍が煙の中からその姿を顕わにした。
「くっ、食人鬼《オーガ》を召喚する元を断たねば!これではきりがない!」
 こう言葉を発したローレンスの肩は、人外の秘儀を連続したためか、疲労で肩を弾ませていた。
 その時である。炎と煙の中から一際巨大な怪物が姿を現した。
その梟《ふくろう》のような顔貌は一つの首に三様に並べられ、それぞれが同様ながらそれぞれに異なる表情を変え、その体躯は人とも鳥ともいえぬおどろおどろしい形態を成していた。
「こいつが軍団を統べる魔物か!」
 ローレンスがこう言い切る間もなく、その三つの口から炎が飛び出す。
人間離れした跳躍でローレンスはその攻撃をかわしたが、振り向いたその先には灼熱の炎で地面を抉られ、ローレンスの周囲を取り巻いていた食人鬼《オーガ》とともに草木が命を失った、生命の跡を残さない恐ろしい光景が広がっていた。
〈つ、強い!あの炎が直撃すれば間違いなくやられる!〉
 さしものローレンスも自らの死を意識せずにはいられない一撃の跡だった。
その後も三つの梟の顔を持つ魔人は其々の嘴《くちばし》からローレンスへ超高熱の火炎を次々と浴びせ掛ける。
「くっ、攻撃できない!避けるだけで精一杯だ!」
 超人的なローレンスの身のこなしをも凌駕《りょうが》しようという三つの口が放った炎の一つをローレンスがきわどいところでかわした次の瞬間だった。
「しまった!」
 炎の飛んだその方角に気付いたローレンスは自らの失態に叫んだ。
むべなるかな、全てを焼き尽くす高熱の炎は残像を残して消えたローレンスを通り抜け、奮闘するローレンスに夢中となって自らの身を守ることも忘れて木蔭からはみだしたシメオンめがけて一直線に進んだのである。
「うわーっ!」
 瞬く間にシメオンは炎に包まれた。これは、先程自由自在に秘術を操って来たローレンスにでさえ成す術のない不測の事態だった。
〈僕……、死ぬのかな?〉
 煉獄の炎に包まれ全ての感覚を失ったシメオンは、遠のく意識の中で自らに語りかけた。灼熱の火炎が身体を焼き尽くすその一瞬が無限の長さに感じられた。
〈何も出来なかったな。父さんと母さんが亡くなって以来、無我夢中で暮らしを立てるために頑張ってきた。……でも、考えてみればそれ以外何も出来ていなかったんじゃないだろうか?ここまでなんだろうか?これで……死ぬのか?〉
 夢路を彷徨うかのように自らの人生を振り返り、死に行く自らに疑問を投げ掛けたその時である。何かが意識の奥底でシメオンに呼びかけた。
『我が名を呼べ』
 シメオンは自らの意識の中に入り込んだ異界の声に驚く。
「えっ、この声は?」
『我が名を呼べ』
 自らの周囲でない、どこからか響いてきた声は再びシメオンに語りかける。
〈何だ、この声は。『我が名』って……〉
 僅かな意識の中で、シメオンは声に疑問を投げ掛けた。
『我が名はミカエル』
 そう、声ならざる声は応えた。
〈えっ?ミカエルだって?〉
 残った数少ない生命の力が記憶を拾い集めたとき、シメオンに亡き母より子守唄代わりに聴かされていた聖典の一節が想い浮かんだ。
『私の名はミカエル』
深層意識にもう一度その声が響いたその時、シメオンは自らの僅かな意識を振り絞って叫んだ。
「ミカエル、出で給え!」
 その時である!シメオンの全身を燃やしていた凄まじき業火が消えて、その身体が光に包まれ、同時にそれまで雲に覆われていた空が突如晴れ、天空が光を放った。
そして、その光から純白の翼を背に羽ばたかせた、全ての力を象徴したような、強靭な、それでいて何よりも優美な姿をした天使が舞い降りてくる。
「……あれはっ、ミカエル!それではもしやこの少年がっ!」
ローレンスが驚愕の声を上げたその時、締具の鞘から輝く一振りの剣を手に取った 輝ける天使は、その聖なる剣を悪鬼達に向けて水平に薙ぎ振った。
その瞬間、剣から真空の刃が飛び出し、そこからさらに眩い光が前方を覆っていく。
その光に触れた食人鬼《オーガ》の群れは、まるで氷が真夏の太陽の光で瞬く間に溶けるように消滅し、真空の刃は巨大な梟を切り裂き、その胴体は下半身と分離して水平に地面へと転がる。
 シメオンに焦点の合わさっていた焼け付く焔は、そのせいで目標の遥か手前、地面を焼け焦がした。
 彷徨《さまよ》う骸を一瞬で消滅させ、ローレンスが苦戦した焔の悪魔を一刀両断にした天界の使いは、だが力尽きたシメオンが昏倒した瞬間姿を消した。
自らの重さで地に叩きつけられれようとしたシメオンだったが、その時村に到着したバハククが抱きかかえる。
〈助かったのかな……。〉
シメオンは自らの背中を抱く暖かい腕の感触に包まれながら、意識を失った。
「ローレンス、止めを刺すのじゃ!」
 シメオンを抱えたバハククはローレンスに叫ぶ。
「承知っ!」
 そう応えたローレンスは素早く今や上半身だけになった怪物に掌をかざし、そこから生じた光の刃が焔を吐く梟の化け物を貫く。
常人では聞いただけで正気を失ってしまいかねないような忌まわしい叫び声を上げた炎の怪物は、つかの間のたうちまわった後に絶命し、霧のようにその姿を失った。
「はあっ……」
 ローレンスが生死を賭けた戦いを生き延びたことにほっと溜息をついた時、シメオンを腕に抱えたバハククは、
「こっ、これは……間違いない!『無原罪の御宿り』じゃっ!」
 と叫び、自らの半生に渡る努力の応報を実感していた。


     預言者の死

 炎が消え、生々しい傷跡を残した村の片隅で、シメオンを抱きかかえるバハククにローレンスが駆け寄った。
「気を失っておるか。多分ミカエルを召喚したのは初めてだったのじゃ。無理もない」
 目を閉じて静かな吐息を立てるシメオンに眼差しを向けながら、バハククはローレンスに語りかける。
「では、この少年が……」
「そうじゃ。この世界に二人とおらぬ『無原罪の御宿り』じゃ」
 ローレンスの確認にバハククが返答したその時である。燃え続ける家屋と煙の上に星の輝いていた夜空が暗黒に閉ざされ、その空間が渦を巻き出したのだ。
「こ、これはもしや……堕天ルシフェル!?」
 そう叫んだバハククの声に呼応するかのように渦の中心より、何かが光臨する。
 その容姿は左右の背にそれぞれ六枚、あわせて十二枚の翼を背に纏い眩く輝いていたが、その周囲は焔に照らされて微光に包まれていたにも関わらず、そのバハククがルシフェルと呼んだ存在によって無明の闇と化していた。
「やはり、居場所を掴んでいたか……」
 シメオンを抱えながら。バハククは痛恨の表情で、闇より君臨した邪を統べる王を見上げた。
 堕天ルシフェルもバハククに目を留める。その瞳は、輝きに包まれていたが、バハククがその瞳を見つめた時、その奥にある暗闇は大賢者バハククをも地獄の奥底に引き込まれるような恐怖に陥れた。
「おお、お前は確か、大戦の時の小僧……。まだ生きていたとは」
 堕天がバハククとローレンスの心中に声ならぬ声を呼び掛ける。
「そっちこそ、あの時くたばりぞこないおったか」
 そう皮肉を返したバハククの額から、今まで一度たりとも目にしたことのない冷や汗がバハククの額に浮き出ていることを、ローレンスは気付いた。
「ローレンスよ、儂の代わりにミカエルの使い手を安全な場所に移してくれい!」
 バハククがローレンスに叫ぶ。
「いえっ、しかしっ!……私も戦います!」
 バハククの指示に対してローレンスは反駁《はんばく》した。だが、しかしその瞬間バハククは
「堕天相手とあっては今のお主は役立たずどころかただの足枷じゃ!言うとおりにせんか!」
 その滅多にない怒号と、眼前に浮遊する、今まで戦った敵と比較にならないほどの威圧を感じたローレンスは、
「はっ、はいっ!」
 自らの無能にふがいなさを感じながら、素早くシメオンを受け取り、人外の秘儀でその場を後にした。
「ミカエルの使い手を退かせたか」
 ルシフェルの声ならざる声がバハククに響く。
「当然じゃ」
 冷や汗がバハククの頬を伝う。
「無駄なことを……」
 ルシフェルの輝きが増し、それに従ってその周囲を取り巻く闇も広がっていく。
「はたしてそうかな……?」
 バハククが手にしていた杖をかざす。その先端の水晶からは、ルシフェルの放つ闇に抗うように光が迸る。
「無意味な……」
 そう言葉を発したルシフェルが片手を優雅に薙ぐ。
 次の瞬間である。大地震が起きたかのようにルシフェルを中心とした地面にひび割れが起き、
地割れの結果岩石となった大地が浮き上がっていく。
 ルシフェルの背後には先程まで燃え上がっていた家々の砕け散った残骸が浮揚している。
「ぐおおおっ!」
 バハククはそう叫びながら自らの肉体を宙に浮かせていた。その身体を包み込む光が岩石を弾いている。
「生命の樹《セフィロト》より放つ天界の光、聖なる矢となりて邪を滅す!」
 バハククがしゃがれ声を発すると、先程ローレンスが梟の怪物に止めを刺したよりも更に巨大な光の刃が、杖の水晶から矢継ぎ早に発射されていく。直線的に、あるいは其々の弧を描いてあらゆる方向から光がルシフェルの発する闇を襲う。
〈あれだけの攻撃を、続けざまに……これなら、勝てる!〉
シメオンを抱え、遠くから光線が砕く岩石の為、粉塵の中に鈍い光が無数に輝く戦いの様子を見守りながら、ローレンスはバハククの勝利を予感した。
 が、しかしながらローレンスの期待は塵埃《じんあい》の霧が晴れて間もなく失意へと沈んだ。バハククの放った渾身の猛攻にも関わらずルシフェルの身体には一つの傷も付いていないどころか、その表情には驚いた様子さえないのだ。
「この程度か……」
 そう呟いたルシフェルがこの世ならぬ優美さで片手を振り上げると、地割れを起こしていた地面の底から無数の黒い光が発した。
それは刃となってバハククを襲い、いとも簡単にバハククの結界を破り、その身を貫く。
「バハクク様!」
 ローレンスの悲痛な叫びの中で、バハククはかろうじて浮遊を行いながら、ルシフェルが発生させた地割れの外界に辿り着いたが、遂には傷の為か揚力を失い、地に倒れた。バハククのかぶっていた帽子が吹き飛び、顕《あらわ》になった黒髪から血が滴った。
〈師の術すら効かぬとは……!〉
 ローレンスが驚愕の表情でルシフェルを凝視した時、闇を纏った輝ける瞳もまたルシフェルを捉えた。
「毒花となる芽は摘まねばならぬ……」 
 ルシフェルが、依然気を失っているシメオンと、人の未来が終焉することを覚悟したローレンスが隠れていた草陰に向かい、その片手を振り上げようとしたその時である。
「……まだっ、終わってはおらぬっ……」
 そう呻くように言葉を吐いたバハククの震える手は、傍らに転がった帽子を掴み大地に爪痕を残しながらその身を屹立へと導く。
「ほう、まだ生の苦しみを味わっていたか」
 ルシフェルは自らの動作を止め、水晶の杖に寄りかかることでやっと立っていられるバハククへ怜悧《れいり》で残酷な視線を移す。
「……儂ではお主を滅すことは出来ん。……じゃが、」
 こう言ったバハククの瞳は、しかし依然として、いや寧ろ先程よりも強い光を放っていた。
「命と引き換えに相応の傷を負わせることぐらいは出来るわっ!」
「なにっ!?」
 バハククは両手に杖を持ち、高々と天に掲げた。
「天使達に告ぐっ!我は命を捧ぐ!我を霊媒となし、堕天を葬り給えっ!」
 バハククの詠唱と同時に、水晶が光を発し、そこから放たれた光が宙を貫き、孔を穿《うが》った闇夜から光が差し込んで、その聖なる輝きから白い翼を身に纏った数十の天人達が姿を現した。
〈……これほどの天使召喚!……まさか禁断のっ!〉
 ローレンスはルシフェルと同種の、しかしその身体より紛れもない聖なるオーラを周囲に発する天使達を心強く感じたが、同時に召喚者であるバハククの身を案じた。
「むっ!これほどの天使を一度に召喚するとは!させぬ!……出でよ七十二柱《ななじゅうふたはしら》の上位悪魔達よ!」
 ルシフェルがバハククの呼び出した天使に対抗する召喚の言葉を唱えたその瞬間、ルシフェルの周りを聖なる光線が取り囲んだ。
それをもし上空から見ていれば、その光がバハククが廃墟で秘儀を用いたような十の頂点からなる幾何学模様を描いていることに気付いただろう。
「させるかっ!」
結界を張り巡らせたバハククが叫んだ。
「こんな脆弱《ぜいじゃく》な結界など、すぐに取り除いてくれる!」
 ルシフェルの掌からは黒い光が中空へ発し、それが結界の頂点の数に分散し、バハククの念が込められた玉石の神通力を失わせる。だが、
「一瞬あれば十分!」
 バハククが叫んだように、悪魔の召喚が遅れたその一瞬の間に、天より召された天使達がルシフェルに総攻撃を掛ける。
「くっ……」
 ルシフェルはその美しい肉体を瞬く間に小さな闇の球体となし、包囲からの脱出を試みるが、天使達が瞬時に作り出した光のネットがその逃走を阻み、ルシフェルは再び肉体へと姿を変える。
 そこへ天使達があらゆる方向からルシフェルに向けて聖なる光を放つ。その光はルシフェルの纏う闇を照らし、大気は揺れ、地は鳴動し、外は夜にも関わらず白日のような光に包まれる。
「しまっ……、ぐあああっ……!」
 ルシフェルの叫び声がなくなっても暫《しばら》く止むことのなかった天使達の攻撃が終焉したとき、その荘厳な攻撃でルシフェルの肉体は消滅していた。
こうして天使達は闇の空から差し込む一閃の光の中へと飛び去っていき、最後の天使が吸い込まれ、再び空が闇と星の光に覆われたその時、からくも屹立していたバハククは地に伏した。
「バハクク様!」
ローレンスは師のもとへと駆け寄り、抱きかかえる。
「……ローレンスよ。儂はもう死ぬ」
 バハククは肩で息をしながらローレンスに語りかける。
「そ、そんな……」
 とはいえ、バハククの用いた召喚が卓越した預言者にしか操ることの出来ない、命をその代償とする秘儀だということをローレンスは知っていた。
「……一刻も早くミカエルの使い手を安全な修道院へ連れて行くのじゃっ……」
 バハククは血の咳を吐く。その声は震えていた。
「天使の攻撃はルシフェルの肉体を消滅させたに過ぎぬ。ミカエルでなくてはルシフェルは倒せんのじゃ。……おそらく三年を経たずして肉体を癒し再び小僧の命を狙ってくるじゃろう」
「さっ、三年……」
「その時までに修道院で『無原罪の御宿り』を一人前の救世主として育て上げるのじゃ、よいな……」
「はっ、はいっ!」
 今や死に行こうという師の言葉に対して、ローレンスは応える以外の選択肢を持たなかった。
 バハククは残り少ない生命の灯火《ともしび》で片手を浮かせ、ルシフェルの光線でその効力を失っていた玉石をその掌に集め教会の紋章を円で囲った腰帯のバックルを取り外し、自らの髪の毛を一本抜いて
「残されし我が命、玉石に宿り無原罪のお宿りを守りたまえ」
と念じるとバハククの髪の毛が玉石を貫いて鎖となりその一端が六芒星十字のバックルに結びつき意識を失ったシメオンの左手に巻かれた。
「……この杖はお主が貰ってくれい。儂の形見じゃ。身分証代わりにはなるじゃろう……」
 息をするようにバハククが言葉を呟く。
「はい……」
「ローレンスよ……シメオンを送り届けたら、……あとは自らの思うままに生きよ……」
 バハククの瞳は周囲の炎を反射し、沈み行く夕焼けのように暖かくローレンスを照らす。
「……お主の望みとはいえ、過酷な日々を遅らせてしもうた……すまぬ……」
 涙に濡れるローレンスに言葉を遺しバハククは息を引き取った。


     邂逅

 馬車から見る景色。
 晴れた昼。
 馬車が今まで通ってきた道。
 明るかったり暗かったり、晴れだったり曇りだったり、風が強かったり、雨が降ったり。
 道は平坦だったりでこぼこだったり、周囲が畑だったり、湖が見えたりした、立ち止まることなくひたすら進み続けて来た道。
 開け放たれた後方の戸口よりゆっくりと流れる緩やかな山道の景色を、シメオンはガタゴトと揺れる幌馬車の中からぼんやり眺めていた。
 悪魔に襲われ、多くの人が犠牲となったその翌日、すぐに旅は始まった。
旅支度は整っていなかったが、村はずれの親戚の家へ出掛けていたおかけで無事だった雑貨屋の老婦人を初めとした、生き残った一連の戦いを目撃していた住民達が、馬と馬車、そして食糧を用意し、シメオンの飼っていた動物を預かってくれるなど積極的に協力してくれたのだった。
〈村を出発して二週間ほど経った。村を出るのはこれが初めてだったので、不謹慎かもしれないが最初の内は旅が愉しかった。だけど、それも三日まで、すぐに家のベッドや今までの暮らしの何もかもが懐かしくなった。でも、もう後戻りすることはできないんだ。最後にベッドで眠ったのは一週間ほど前。それ以外はずっと馬車での寝泊りが続いている……。そういえば、預けていった馬や羊達は元気にしているだろうか。〉
 こんなことをふと考えながら、シメオンは胸の内ポケットにしまった十粒の玉石に手をやり、前方で手綱を握る僧衣を纏った白いローレンスの背中を見つめる。
「馬、代わろうか……」
 声を掛けてみるが答えがない。近づいてローレンスの横顔を覗いてみると、何かに気をとられたようにぼんやりと考え事をしている。
 旅を通じて、ローレンスはシメオンを守ろうと周囲に神経を尖らせていたが、それでいて時々うわの空になっていることがあった。
〈亡くなった、あの老人のことを考えているのだろうか?〉
 シメオンは、魔物達に襲われた夜、遠のく意識の中で目にした、無骨だが優しそうなその瞳を想い起こしたが、ふと案じて片手を挙げ2本の指を口に咥え、
『ピーッ!』と指笛を吹くと、ローレンスはビクッとして後ろを振り向く。
「馬、代わろうか!」
 ローレンスの問い掛けに、
「んっ、えっ……?」
 何を言われたのか理解出来ずにローレンスは聞き返す。
「いや、よければ馬代わろうかと思って……。もう何時間もずっと走らせているから……」
「あっ、ありがとう。まだ大丈夫です。口笛、上手ですね……」
「うん、これで羊の世話をするんだ。幾らでも大きな音を出せる。もしも遠くにいる時に何かあれば、これで報せることにするよ」
 ローレンスの褒め言葉でちょっと得意気になってシメオンは応える。
「わかりました。ところで……この調子で行けば夕方までには都に到着出来るでしょう」
「今日中に着くのかい。生きているうちに都を目にするなんて思ってもいなかったよ。それは楽しみだな。ベッドにも眠れそうだ」
 いつになくシメオンの表情が明るくなった。
「ええ、到着したらすぐに宿を探しましょう」
 ローレンスはシメオンに微笑みかけ、再び馬車の揺れる音だけが響く。
優しいが言葉少ななローレンスに対して会話を続けようとしたシメオンは、ふと
「あの夜ローレンスが口にした生命の樹《セフィロト》って言葉、もしかして……」
 と声を投げかけた。。
村が襲われてバハククをはじめとして多くの村人たちが亡くなった夜の出来事についてはそれまで半ば無意識に二人とも会話を避けており、ローレンスの操った秘術やシメオンに起こった不思議な出来事に関して質問するのはこれが初めてだった。
「はい、聖典の言葉です」
「やっぱり。死んだ母さんから聞いたことがある。人が始めて生まれたとき、神様は楽園に生命の樹《セフィロト》を植えて、いつでも神様や天使が手助け出来るようにしていた。だけど、人がルシフェルの誘惑で知恵《ダート》の樹の実を食べてしまうと、神様は人から生命の樹《セフィロト》を取り上げてしまったんだって」
 シメオンは頷《うなづ》く。
「そのとおりです。そしてその後ルシフェルは神より授かった聖剣を携えた大天使ミカエルの手で封印されました。しかし、数十年前、封印されたはずのルシフェルが蘇り、人に害を成すようになったのです。」
「しかしその頃、時を同じくして……」
ローレンスが説明を続けようとしたその時である。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

「きゃーっ!」
 遠くから聞こえてくる甲高い悲鳴によって会話は中断され、運転を続けていたローレンスは馬車を止めて周囲に神経を張りつめた。
 叫び声の聞こえた前方を見やると、遠くに一台の馬車が止まっており、その周りを集団が取り巻いている。そこから日に反射したいくつもの光がローレンスの目に入る。どうやら馬車を取り巻く連中は刃物を持っているようだ。
 ローレンスは馬車が襲われており、叫び声を上げたのは馬車に乗っている女性だということを瞬時に察知した。助けなくてはならないという義務感が生ずる。しかし、シメオンの安全が第一であり、大義を見失ってはならないという理性がすぐさまローレンスに働く。
 シメオンの安全を確保してから馬車を助けるべきだと判断したローレンスは、幌の中に居る筈のシメオンを振り返りながら、
「ここにいてください!」
と指示を出そうとした。
 しかしローレンスはその言葉を言い終えることが出来なかった。御者台を飛び越えてローレンスの傍を通り抜けたシメオンが前方へと走っていったのだ。
 ローレンスは後悔に囚われた。都は修道院への通り道に位置しており、人が多く便利な反面トラブルに巻き込まれる確立も高くなる。再び魔物に教われるような事態が起これば、シメオンの村の時とは比べ物にならないほど多くの人命が危険に晒される。迂回して進むことも出来たが、しかしそうすると次の村まで何日もかかってしまう。シメオンの長旅による疲弊も気になる。師匠であるバハククが命を犠牲にして守ったミカエルの召喚者を病気にしては申し訳が立たない。残り僅かになった食糧も買っておかなければいけない。こうしてローレンスは都での宿泊を決定したのだったが、都まであと少しというところでローレンスの懸念は的中してしまったのだ。
「しまった!御待ちなさい!何て無茶な……状況をわかっているのですか!?」
 ローレンスは叫びながら馬車から飛び降り慌てて後を追う。
 こうして二人が叫び声の聞こえた馬車に近付くに連れて、そこで起こっている事件の様子が明らかになっていく。
 馬車を取り巻く汚い身なりをしたならず者達はやはりそれぞれに蛮刀を手にして馬車を取り巻いている。
 一方包囲されている木製の馬車はそれほど飾り立てているわけではなかったが、非常に高級感があった。中には慌てふためく側近らしき老人と、シメオンが今まで見たことのないような優雅なドレスを身に付けた可愛らし気だが、同時に品位を漂わせた少女が乗っている。どうやら先ほどの悲鳴はこの少女が発したようだ。
そしてその馬車を取り巻くように三人ほどの旅装束をした人々が、どこからか旅人には似つかわしくない懐刀を抜き出して応戦しており、側には何人もの悪漢たちが倒れていた。
 彼等はどうやら少女の護衛で腕も相当のようだったが既に少なからぬ手傷を負っている。
 多勢に無勢、ならず者たちに護衛たちが倒され、少女が毒牙にかかるのは時間の問題のようだった。
 少女の叫び声を聞いて、反射的に、
〈助けなきゃ!〉
と一足早く馬車に無我夢中で駆けつけたシメオンだったが、ここに来てようやく、武装したならず者の衆が馬車を襲っていることに気がつき、凍りついた。
その時、下品に笑いながら遠巻きに護衛との戦いを見物していた数人がシメオンに気付いた。
「何だ、このガキャア!」
瞬間驚いたものの、丸腰の少年だと分かったならず者は声を荒げ、腰の鞘から刀を抜き出す。
「構わねぇ、やっちめえ!」
 隣にいた無頼漢の声と共に山賊はシメオンに襲い掛かっていった。
この時、シメオンにようやく追いつこうとしていたローレンスは、困り果てた表情をしながらその様子を見ていたが、
「人間相手には使いたくないのだが……止むを得まい」
と呟くと、手に持っていたバハククより授かった杖に念を込める。
 次の瞬間である。ローレンスの手にした杖が輝くと、ならず者が蛮刀を振り上げたその瞬間、シメオンの左手に巻かれていた六芒星十字の腕輪の宝玉が飛び散り、宙を舞いながら盗賊達を蹴散らしていく。
「うわーっ」
突然の攻撃に、ならず者達は一気に統制を失い、散り散りに逃げ出していく。
この時、比較的傷の浅い護衛達が首領格らしい何人かの盗賊に、刀の峰で打撃を加え、意識を失わせた。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

「どなたとは存じませぬが、誠にかたじけない」
 ならず者達と応戦していたどうやら護衛らしい男達は、意識を失わせた悪党達を捕縛しながらシメオンとローレンスに礼をした。
シメオンが何かを言い返そうとしたその時、それまで襲われていた馬車のドアがガチャリと開くと、中から先ほど叫び声をあげた少女が飛び降り、それに続いて、
「お、御待ちください!」
 という慌てた声と共に先ほどまで少女の隣にいた老人が出て来た。
同時に礼を言った護衛達が素早く跪《ひざまず》く。
 少女は中背より少し小柄で緑色の上品なワンピースドレスにヴェールを纏った十五,六のブロンド色の瞳をした、もう数年も経てばその形容は美しいに変化するであろう端正な顔立ちをした可愛らしい少女で、快活そうな瞳はいたって真面目そうでいながら、どこかいたずらっぽく輝いていた。
〈乗っていた馬車から襲撃事件が起きたこの現場まで全速力で走ったからだろうか?それとも悪党達に刃物を向けられ命の危機を迎えたせいだろうか?それにしても可愛らしい人だ。〉
 馬車から降りて来る彼女を目にした瞬間、シメオンは身体を電流が走ったような感覚に襲われ動悸が高鳴るのを感じた。
 少女は駆け足でローレンスとシメオンのもとへ近付くと、
「助けてくださってありがとう。先ほど乱暴者達を追い払った不思議な技、預言者様なのね?」
 と興味津々の様子で礼を言う。
そして、言葉と共にスカートのドレスの両端をそれぞれ両手で軽くたくし上げ、片足を後ろに回して会釈をする。これは貴族の行う正式な挨拶だったが、その少女が行うと上品さに混じって相手をくすぐるような愛らしさがあった。
 シメオンの動悸は更に高まった。
 続いて少女に追いついた老人がローレンスとシメオンに深くお辞儀をする。
 老人は白髪で、黒い上下服に蝶ネクタイを締めており、手入れの行き届いた髭と下がりぎみの白い眉、そして善良そうな風貌から従順さとまめまめしさが滲み出ていた。
「この度は野盗の襲撃からお救い下さり誠に有難うございます。こちらはわが国の第三皇女マグダリア様、私めは執事のセバスチャンにございます。先ほど伺いました人外の秘術、預言者様とお見受け……ややっ、その杖は、大預言者バハクク殿のっ!?」
 慇懃に礼をしたセバスチャンだったがローレンスの持つ水晶の杖に気付くと驚きの声をあげた。


     晩餐

〈何だか夢でも見てるみたいだ。〉
 精緻極まる天使達の絵画と壮麗なシャンデリアに装飾された高い天井、給仕達が立ち並ぶ豪華としか言いようのない古今の調度品に彩られた広い部屋、不自然な程に席の余っていることがその大さを引き立たせている、美しいテーブルクロスの敷かれた細長い長方形のテーブル。そして何よりも隣の席に坐るマグダリア。
 恥ずかしくて彼女を見ることは出来ないが、マグダリアの付けた香水が淡く薫る。
 テーブルの全席が見渡せる席にはまばゆい宝石の散りばめられたクラウンを戴き、絹のチュニック、そして赤色をしたゆったりと長い前開きのガウンを着た、鼻下に堂々とした口ひげを生やす、立派な押し出しの男性が座を占め、その両隣にシメオンとローレンスが向かい合って座り、シメオンの隣にはマグダリアが、そしてローレンスの隣には美しいドレスを身に纏った二人の女性が席を占めていた。
〈この人がこの宮殿の主ってことは国王様なのか。そしてマグダリアが第三皇女と呼ばれていたからこの二人は彼女のお姉さんか……そういえば、似ているな。〉
 緊張と恍惚の入り混じった奇妙な浮遊感に包まれながらテーブルに着きながら、シメオンはぼんやり考えた。
 ところで、王家の三人姉妹は、知性や才能に長じていたばかりではなく、いずれも大変な美人で、その美貌は花婿候補たる子息を持つ諸侯の間ばかりでなく、民衆にも広く行き届いていた。
 国王にとっては息子を儲けられなかった事は少々残念でもあったが、国王選出がルシフェルが人を襲うようになって以来、世襲制度より王が亡くなるごとに国王が諸侯より選ばれる代議制となっていた為、その事が国王の政治的立場を不利に立たせはしなかった。
 そして中でも三女のマグダリアは、少々じゃじゃ馬で今はまだ幼さが残っているが、姉妹の間でもとりわけ美人で、将来には最高の相手との縁談が期待されていたのである。
 荘厳な面持ちで王が口を開いた。
「本来ならば都は勿論、近隣に至るまでの諸侯貴族皆を集めての壮大な宴としたかったのだが、ローレンス殿たっての建言により、このようにささやか晩餐とすることにした。この度第三皇女であるマグダリアが賊に襲われていた窮地を預言者の資質を持つシメオン殿、そしてローレンス殿が救って下されたのじゃ。そして、その際セバスチャンによって驚くべき……」
「お父様のお話が終わるのを待っていては食事が喉を通る前に一日が終わってしまいますわ」
 国王の長口舌の途中、マグダリアが茶目っ気たっぷりに口を挟んだ。
 それを聴いたローレンスの隣に座る二人の皇女は上品に笑うと、
「あら、国王殿下の御言葉を途中で遮ってしまってはいけませんわ」
「とはいえ預言者様も私達と同じ生身のお体。私達と同様、お腹が減っておいででしょう。折角の料理が冷めてしまってもいけませんし、まずは御食事に致しましょう」
 と勧める。
「全く……。末娘のマグダリアを産んですぐに、妻は亡くなってしもうてのう。お陰で我侭に育ってしまったわい。まあ、話したいことは山ほどあるが、娘達の言う通りかもしれん。まずは食事を始めるとしよう」
 娘の一言で威厳たっぷりの国王から子煩悩な父親の顔になった王は食事の開始を宣言した。
 その一言を合図として部屋と言うにはあまりに広すぎる会食の間入り口に侍っていたきっちり食事する人数と同じ五人の給仕たちが次々と食事を運んで来る。
 数分後に食卓は料理で埋め尽くされていた。
何か特別な出来事がある時ぐらいしか食べることのない肉や、食べる機会があまりない魚、それに見たこともないがとにかく美味しそうな料理が並び、その光景に圧倒されたシメオンは気後れて何を食べていいのかわからなくなりうろたえた。
 その時隣からマグダリアの声が聞こえた。
「今前菜が来るわ。テーブルに並んでいる料理は後で取り分けてくれるから安心して。ここのシェフが作るパンは美味しいわよ。スープは御父様の御加減に合わせて味気ないのが玉に瑕かしらね」
 悪戯っぽく笑うマグダリアの言葉でシメオンが緊張を解くタイミングを待っていたように食事が運ばれて来る。
 野菜に乗った海鮮類らしき前菜、ぎこちなくナイフやフォークを操るシメオンだったが、思わず、
「美味しい」
 と言葉が出る。
マグダリアはその言葉を聞いて妖精のように微笑んだ。
彼女の言う通り、パンはとても美味しくスープはあっさりとしていた。シメオンが前菜を食べ終えるとどこからともなく再び給仕が現れてテーブルに並んだ料理を素早く綺麗に盛り付ける。シメオンは隣にいるマグダリアを強く意識しながらも料理に夢中になった。
 一方その最中国王とローレンスの間に会話が始まった。
「こちらの料理もいかがかね、ローレンス殿」
前菜を終え、給された食事の一つを軽く口に含みながら国王はローレンスに尋ねる。
「有難うございます、しかしながら私は肉や魚は控えておりますので」
「なるほど。ローレンス殿の高潔な容姿は菜食から来ているのか。これは儂も見習う必要がありそうじゃ。さて、マグダリア救出についてじゃが、改めて礼を言わせてもらいたい。冷静なセバスチャンが山賊を倒すローレンス殿の活躍を語るに至っては口角泡を飛ばしておったわい」
 国王は相好を崩した。
「そのお言葉であればシメオンに掛けて下さった方がよろしいかと。私は師バハククの言葉に従ってシメオンの警護に専念していました。シメオンが助けに行かなければ私自身はマグダリア様を救いはしなかったかもしれません」
「そうであったか。バハクク殿の言葉であれば従うのが当然じゃ。……シメオン殿、心より感謝する。いや、救世主シメオン殿といった方がただしいかな」
国王の言葉にシメオンは慌ててナイフとフォークを置き、顔を赤らめる。
「お父様ったら、食事をしている救世主様の御邪魔をしては悪くってよ」
 再び悪戯っぽくマグダリアは口を挟み、マグダリアの言葉で更に顔を赤らめた国王は豪快に笑ったが、急に真剣な顔つきになった。
「それにしても、あの大賢者バハクク殿が命を落とすとは……。せめてもう一度杯を共にしたかった。国家にとっても損失は極まりない。何よりも大賢者バハクク殿の命を奪うような悪魔がいるとは、まさか……」
「ええ、国王様の考えていらっしゃるそのまさかです。堕天の王です。バハクク師は禁断の償還術を用い、命を賭してルシフェルを退けました。しかしながらあのバハクク師ですらミカエルを召還することは出来ませんでした……」
 ローレンスの端麗な表情が曇った。
「楽しい御食事の最中なのに、こんな時にまで辛いことをローレンス様に思い起こさせてはいけませんわ。政については後ほど真剣にごゆっくりとなさってくださいな」
「そうね。それよりも宮殿に閉じこもってばかりの私達にいろいろな地域のことを教えてもらいたいですわ」
 ローレンスの表情に気付いた二人の皇女は上手く話題を変えた。
「うむ、確かに食事の進む話題ではないわい。儂もここでの執政が長く、各地の情勢について疎くなりがちじゃと常々反省しておる。是非とも聞かせてくれい」
 この言葉以来食事の最中バハククの死やルシフェルについて触れられはしなかった。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

「うむ、そろそろローレンス殿もお前達の質問攻めに疲れておろう。儂も興味深い話を聞けなくなるのは惜しいがローレンス殿、そろそろ食事の時間はここまでとしよう。マグダリア、お前も救世主とあろうお人をあまりからかうでないよ。シメオン殿とローレンス殿には僭越《せんえつ》ながら寝室を用意させてもらった。ゆっくり休まれるがよい。それと、ローレンス殿、後ほど先程の続きをゆっくり話そう。後ほど部屋にセバスチャンを遣《よこ》すとしよう」
 話題を変わって半刻ほどしてから、国王は晩餐の終焉を宣言した。
 ローレンスは承諾し二人の皇女は大いに残念がった。
 片やマグダリアは
「ごめんなさい。でも、救世主様ってとても楽しいんですもの」
 と弁明した。食事の最中マグダリアは何度も意地悪っぽくシメオンを見つめ、その度にシメオンは顔を真っ赤にして食事を進められなくなっていたのだった。
〈だけど何でだろう?からかわれている彼女の隣の席から離れるのがこんなに残念だなんて。〉
 シメオンは初めて味わう奇妙な気持ちに抗うように安心したふりをして、マグダリアに見つめられる気恥ずかしさを隠すため申し訳程度口に含んでいたスープに用いたスプーンを起き、食卓に上げていた両腕を膝に乗せた。
その瞬間である。シメオンの片手にふわっとした感触が伝わり手の平に紙片の感覚がした。
 シメオンは驚いてその手の方へと振り向いたが、その方向にいるマグダリアは何食わぬ顔で二人の王女たちと会話を楽しんでいた。
 シメオンの心臓は高鳴った。


     誘惑

 シメオンはいかにも上質なテーブルやソファといった調度品、そして素人目にも名人の描いた作品と直感することの出来る美しい風景画に彩られた広い部屋の、並んで設置された二台のどっしりとした材木に加えてサイドフレームやヘッドボード、フットボードに美しい象牙造りの彫り込まれたベッドの一つに座っていた。
 いや、座っているというよりは客観的な描写としては放心していると言った方が正しいだろう。
 だが、無理もあるまい。寝室に持ち込んだ僅かの荷物を整理しているような振りをしてローレンスにそれと悟られないように読んだ紙片にはこう書かれていたのだ。

 命をお助け頂いた時より
あなたに心を奪われてしまいました
後ほど御迎えを遣《よこ》します
奪われた心をお返しください
                      マグダリア

 この時、隣と言うには随分と距離の離れているローレンスのベッドの側に設置してある大理石製のサイドボードから、バハククが滅び去ったオアシスの街で発し、旅の途中に何度もローレンスが放った半円状の淡い光がシメオンを透過したが、シメオンはそれに気付かないようだった。
「……あまりにも出来過ぎている」
 他方で光を放ったローレンスは端麗な表情を沈ませて呟く。
「出来過ぎているって、何が?何か変な気配でもあったのかい?」
 ローレンスの言葉はシメオンに向けられてはいなかったが、自身への反駁として余りにも符合していたことに驚いたシメオンは我に返り、ローレンスに語りかけた。
「いえ、ただ……」
 ローレンスは訝しげに首を傾げた。
「用心深いのはいいことだし、ぼくにとっても有難いけれどあまり疑い深くなってもしょうがないよ。それよりも国王様に御呼ばれしているのだからゆっくり楽しむといい。もうそろそろ使いがやってくるんじゃないかな」
 ちょうどその時、寝室のドアにノックの音が響き、聞いた事のある声が聞こえた。
「セバスチャンにございます。ローレンス様、国王殿下が御待ちでございます。御準備は整われましたでしょうか?」
 ローレンスはその声に応え、出口に近づいてドアを開けようとしたが、ドアの取っ手を手にしてから立ち止まって数瞬考えを巡らし、セバスチャンに、
「少し、御待ち下さい」
と断ると室内に向き直り、細長く美しい指を額の中央にあてがい、
「邪を退けし生命の樹《セフィロト》の光、ここに満つ」
と、唱え優美な指先を前方へと軽やかに振りかざすと、その指先の先端から芳しい香りと共に霧が室内を満たし、すぐに消滅した。
「簡単な結界を張りました。部屋から出ないようにしていてください」
 こう言って、ローレンスは寝室を後にした。
 独り部屋に残されたシメオンはしかし、再び今度はじっくりとマグダリアから受け取った手紙を読み直すと、半ば無意識に設置してある化粧台の鏡に向き合って一生懸命に自分の髪型を整えながら期待と不安に胸をときめかせた。
〈考えてみたら鏡の前でこんなことするなんて生まれて初めてかもしれないな。自分の身なりを気にすることなんて無かったな。それにしても、何だろう、この気持ちは。僕なんかに心を奪われるだって。そんなこと考えてもいなかったけど、嬉しいし、何かドキドキする……。〉
 今のシメオンにとって結界など無用の長物に過ぎなかった。
 マグダリアの遣《つか》いはそれから数分後、驚くほど早くにやってきた。静かにドアを叩く音が聞こえ、外から
「シメオン様、今お一人でいらっしゃいますね。マグダリア様のお部屋へご案内いたします」
 と、押し殺してはいるが好奇心丸出しな女性の声が聞こえる。
〈どうやらどこかの陰でセバスチャンがローレンスを迎えに来るのを伺っていたようだ。〉
 シメオンがそう考えてからドアを開けてみると、小柄な掃除か何かでも担当してそうな中年の女中が居る。
「私について来て下さいね。静かに、足音を立てられないようにお願いします。何しろ、こういうことは昔からこっそりするのだと相場が決まってますからね」
中年の女中はこう言って意味ありげに含み笑いをすると、周囲に気を配りながらシメオンに先立って静かに歩き始めた。
 道の途中で赤い絨毯の敷かれた大きな廊下から外れて人気のない庭道や台所に物置部屋、階段を通る。
 外観からして、もはや幾何学的に巨大な何かとしか言い様のない広壮な王宮を訪れて間もなくのシメオンには、当然ながら宮殿の地理など皆目見当がつかなかったが、それでも普段客人が決して通らないような裏道を、どうやら人目を避けるため故意に遠回りをして自分が通っていることだけははっきりと自覚することができた。
庭道や誰も居ない部屋を何度も通り抜け、非常用らしい暗い階段を上がってしばらくして再び赤絨毯の広い廊下へと出た。中年女中はより一層慎重に、と同時により一層表情をにやけさせながらシメオンを案内する。
「こちらの部屋です。さっ、早く」
 意味ありげな顔で周囲を注意深く見渡しながら後ろ手に部屋の扉を開けている女中の隙間から、シメオンは部屋の中へ飛び込んだ。
「ドクッ、ドクッ、ドクッ」
 自らの胸の高鳴りが聞こえるのを感じながらシメオンは室内を見渡す。
 照明が灯されていない部屋は暗く、窓から入り込む月明かりと、高い天蓋《てんがい》が付いたベッドの白い絹のカーテンの中で光る蝋燭の光だけが広く天井の高い室内に輪郭を与えていた。
 蝋燭の光が灯る絹のカーテンの内側から声が聞こえる。
「シメオン様、御待ちしていました」
 その声は、悪戯っぽい少女とは思えないほど妖しくシメオンに響いた。

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 ほぼ時を同じくしてローレンスはセバスチャンによって丁重に開けられたドアから国王の待つ部屋へと入っていった。
 そこはどうやら国王の個人向けの私的な応接間のようで、意図して小さく作られた室内には対面するように据えてある煌びやかなソファとその間のテーブル、美しいグラスの飾られた食器棚と各地から取り揃えた美酒を取り揃えたもう一つのガラス棚、そして壁には国王お気に入りの簡素な絵画が数点飾られていた。
 国王はソファに座っていた。食事の時よりも血色を良くしているが、その理由はテーブルの上にあるグラスと芳香を放つ葡萄色の液体が教えている。
「いやあ、よく来てくれた。まあ、座りたまえ。先に酒を呑ませてもらったよ。この年になってくると、忍耐が無くなっていかんな。ローレンス殿も一杯どうだね」
「有難うございます。椅子には座らせていただきますが、お酒は遠慮させていただきます」
 対面に設置された席に座を占めながら、いかにも慣れた口調でローレンスは酒を辞す。
「はっはっはっ、そうだと思っていたよ。まあ、そうでなくてはバハクク師の弟子は務まってはいなかったろうな。セバスチャンも座るといい。椅子がそこにあるから」
「私は立っているほうが座っているよりも楽にございます。御優しい御言葉有難うございます」
 ローレンスを応接室に通した後、入り口に近い応接室の片隅にひっそりと立っていたセバスチャンは感謝の意を表した。
「うむ、長い付き合いになるがセバスチャンは儂の前で一度も座ったことがない。セバスチャンはずっと儂の片腕を勤めてくれてのう……。じゃが数年前衰えを感じたらしく職を辞そうとしたのじゃが、それならばとマグダリアの世話役を頼んだのじゃ。もっとも今でもいざとなった時にはゼバスチャンほど頼りになる男はおらんのだが……何しろ末娘のじゃじゃ馬っぷりと来たらたいしたもんでな。儂と共に国を治めるより難しいやも知れんて」
 こう言うと、国王は豪快に笑った。
「この通りセバスチャンは当然酒もやらんのじゃが、バハクク殿が訪れたときだけは別でな。立ったまま呑みよる。もう十年以上会っておらず、再開を楽しみにしていたのじゃが。まさか命を落としていようとは……。遂に堕天が姿を現わしよったか……」
 国王の声色がいつになく真剣さを帯びた。
「ええ。だからこそミカエルの召還者であるシメオンを、無事修道院に送り届けなければなりません。今のシメオンではその秘儀を使いこなせず、よしんばミカエルを召還してもすぐに力を使い果たしてしまいます。傷を癒したルシフェルが再び私たちに牙を向けるまでに安全な場所でシメオンが力を養わねば……」
 ローレンスの麗しい瞳に真摯な光が宿る。
「それで修道院へというわけじゃな」
「はい」
「なるほど、修道院であれば悪魔を寄せ付けぬ結界が張り巡らされておるし、修道院長のシトー殿もいらっしゃる」
 国王がこう言って肯いた際ローレンスの見せた微妙な表情に国王は気付いた。
「シトー殿を御存じないかな?」
「シメオン師よりお噂はかねがね聞いておりましたが、実際にはお会いしたことがありませんので……」
「うむ、バハクク殿とは異なり厳格な御方で、儂も大戦以来御会いしてはおらんがの、とにかく頼りになるお方じゃ、心配御無用ですぞ……」
 こう、やや不安げな表情のローレンスを元気付けたあとで、国王は対談の目的ともいえる質問を思い出した。
「……して、堕天の主が傷を癒すまでの期間は……」
「バハクク師の遺言によれば、長くて三年」
 ローレンスの言葉を聞いて、国王は片手で口ひげをつまみ、続いてソファの背にもたれかかり中空を仰いだが、暫くして気を取り直すと決意を込める。
「……わかった。それまでに儂は国王として出来る限りの努力をしよう。……魔物に襲われれば生身の人間では太刀打ちすることが出来ん。預言者の数も限られていよう。まずは被害を少なくすることが肝要。都市部の住民達を各地に疎開させねばならん。まずは住居設備を整え、その後速やかに住民を移住させるのじゃ。それから魔物による被害や天変地異が起こる。現在の国家備蓄食料に加えて倹約令を促し、国民に分配する。セバスチャン、協力してくれるな!」
「勿論に御座います。いつもながら完璧な政。早速有識者を集め、翌日の執務開始までに法令を作成いたします」
 温厚そうなセバスチャンの目が一瞬鋭く光った。
「うむ、宜しく頼むぞ」
 国王は再びローレンスを視線を移す。
「修道院に無事シメオン殿を送り届けられるよう、こちらとしても協力させてもらう。旅に十分な食料と金銭、それに余り目立ちすぎぬが広くて快適な馬車に国きっての名馬をつけよう。行程には今夜中に早馬を走らせ、旅の疲れが取れるよう宿の準備を整えておく」
「有難う御座います」
「護衛もつけられるが?」
「いえ、残念ながら魔物相手ではかえって……」
 ローレンスは言葉を濁した。
「足手まといになってしまうか。その通りじゃ。ローレンス殿がついておれば心配あるまい。それにしても日々自らのふがいなさを日々痛感せずにはおれぬ日々じゃ。堕天の主との戦いを預言者と、その預言者達を統括する修道院に託すよりないのだからな。それにしても皮肉よのう、堕天の主や魔物に襲われることで今まで内紛や権力闘争にまみれていた国政が一つにまとまり、結果として争いやそれが引き起こす飢餓・病気に苦しみ死んでいく国民が少なくなるなんてのう……」
国王はテーブルの杯を乾かし溜息をついたが、そこで何かをふと思い出したように続けた。
「そういえば、一つ引っ掛かることがあるんじゃが」
「それはなんでしょう?」
 自身、悪い予感を感じ続けていたローレンスはすかさず聞き返した。
「うむ、今回の事件に気になることがあっての。マグダリアを襲っていた山賊じゃが、山賊といっても彼らの生活の為にせいぜい旅人から小額の通行税を取り立てる程度の半農の衆。決して人々を襲いはしなかったはず。寧ろ周囲の村や町が魔物たちに襲われた際には身を挺して彼らを守っていたため寧ろ義賊として慕われておった。だからあの地域の山賊の取り締まりは敢えて緩めておいたのだがのう……、なぜ今回このような愚かなことをしたのか……」
 国王が首を傾げたその時、けたたましく応接室のドアが鳴り響いた。
 セバスチャンが素早くドアを開けるとローレンスが見覚えのある一人の青年が駆け込み、国王の前で跪いた。山道で山賊と戦っていた護衛の一人だ。
「失礼と承知なれど急の大事と独断いたしまして国王様に申し上げます。捕縛した山賊達を取り調べたところ、個別に牢に入れ厳しく問い詰めたにも関わらずその全員が山中で意識を失い、第三皇女様を襲撃した記憶すらないと証言いたしました」
「何じゃと!?」
〈シメオンが危ない!〉
 国王が驚き叫び、異変に気づいたローレンスが立ち上がったその時である。
『ピーッ』と遠くから発せられたとわかる高らかな音が室内に響いた。
「あの笛の音はシメオンの合図!あの方角はっ!?」
「マグダリアの部屋じゃあ!」
 指笛の鳴った方向の先にある愛娘の居室を突き止め、国王は悲痛な叫び声をあげた。


     憑依

 国王の叫び声が終り切らないうちに、ローレンスは護衛の青年が開け放ったドアから人間離れしたスピードで部屋を飛び出した。
 残された三人はローレンスが一瞬の内に部屋から姿を消していく様を数瞬状況を忘れて見呆けていたが、慌てて我に返り、ローレンスに続いて廊下へと走り出た。
 この時、一歩の内に常人の数十歩の距離を跳躍するローレンスの姿は応接室の入り口から百歩ほども離れた廊下の曲がり角へと到達し、瞬く間に残像を残して建物の陰へと吸い込まれていった。
 もしも三人のいずれかがシメオンの村に到達する際バハククが用いた、あのカモシカも舌を巻くような敏脚を目にしていたならば、ローレンスが今何らかの秘儀で、バハククと同質の力を操っていることに気付いたに違いない。
 それから数秒、曲った廊下の数百歩先にある階段へと到達したローレンスは、十数段の階段を飛び越え、階の中央に設置された踊り場から二階、そして次の踊り場から三階へとたった四つのステップで駆け上がっていく。
〈やはり、予感は的中していた。ここまで魔物の襲来が一度もないことがおかしかったのだ。バハクク師が堕天の主を退けたことで、魔物達の邪力が弱ったのだという私の慢心が招いた失態だ。それにしても、今まで気配を一切感じさせないとは!この高い知性、もしや七十二柱《ななじゅうふたはしら》の一柱か!〉
 階段を飛翔するかのごとく上りきり、更に速度を上げてマグダリアの部屋を目指す。ローレンスの移動に一瞬の迷いもないのは、先ほど寝室で邪悪な気配を感じる際用いた秘儀で、同時に屋敷の地図を立体的に把握し、その時既にマグダリアの部屋までの走行経路を決定していた為である。
 スタートした寝室から目的地であるマグダリアの部屋まで、常人であれば歩いて十分、運動神経に自信のある近衛兵が全速で走ったとしても数分は掛かろうという道のりを、ローレンスはものの十秒という時間で部屋の扉の前まで到達した。
 この時、先刻シメオンを部屋まで案内した女中が一度は部屋を離れたものの、抑えきれぬ好奇心に負けたのか、厚い扉の隙間から何とか必死に室内を覗き込もうと試行錯誤していたが、疾風のように扉へと近付いて来たローレンスに驚いて腰を抜かし、尻餅をついた。
 だが、中年女中の驚愕はこれだけでは済まなかった。
 ローレンスが重い扉を開けた瞬間、目にした光景に女中は、
「あわわわわ……」
 余りにも想像とは掛け離れた光景に、思わず泡を吹いた。
 だが、この時醜態を演じた女中を嘲笑することは誰も出来ないだろう。艶やかな秘め事が展開されていようと中年女中が想像を膨らませていた室内には、緑色の光を帯びた怪しい妖気が充満しており、その舞台となっている筈の天蓋付きのベッドのすぐ側ではマグダリアが両手を高く上げ、シメオンの首を締め上げていたのだ。
 首を締め付けられているシメオンの両手は苦しそうにマグダリアの手首付近を抑え、その足を宙にバタつかせている。
 華奢な体つきから有り得ないほどの怪力でシメオンの首を締め付けるマグダリアの瞳はいつものブロンド色ではなく、緑色に妖しく輝いていた。
〈何かが取り憑いている!〉
 そう素早く察したローレンスは、素早く僧衣の内にしまい込んでいた六芒星十字に玉石の繋がれた質素だが美しいペンダントを取り出し、
「生命の樹《セフィロト》の光、玉石に宿り魔を貫け!」
 詠唱を行うと玉石は聖なる光を増し、狩人の合図で獲物に襲い掛かる鷹のように、邪悪な存在に取り憑かれたマグダリアに向けて突撃した。
 だが、次の瞬間である。
 ローレンスの掌からマグダリアへと到達する経路の半ばで聖なる光を放つ玉石は壁に衝突したように弾かれ、地に落ちて輝きを失った。
「何っ!?」
 驚きを隠し切れないローレンスの視線が玉石の弾かれた地点に、続いてハッとしたようにその地点下方に注がれる。
ローレンスは絹の絨毯で覆われていたが床が、マグダリアが立つ位置を中心として、円形に緑色の鈍い光を放っていることに気付く。
「魔法陣かっ!」
 鋭くなった美しいローレンスの眼光は邪悪に嗤うマグダリア、いや正確にはマグダリアに取り憑いた何者かに突き刺さる。
首を締められたシメオンは先ほどよりも幾分か抵抗が弱まっているように感じられた。
「ならば力づくで突破するまで!」
 続いてこう叫ぶと、ローレンスは手にしていた、バハククより授かった杖を両手で掴み、目を閉じて再び詠唱を始める。
 詠唱の長さに比例して杖に嵌め込まれた水晶が聖なる光を帯びて輝いていく。
 そして次の瞬間、ローレンスは両手で握った杖を斜めに振りかぶると、マグダリアに向かって突進し、先ほど玉石を弾かれた魔法陣によって作られた見えない壁に向かって尖った杖の先端を突き立てる。
 魔法陣から産まれる魔力の壁と、水晶から杖の先端へと送り込まれる聖なるエネルギーとの間に衝突が起こり、凄まじい怒号が生じ、杖の先端は雷光を発した。
 ローレンスはその間も詠唱を続け、水晶にエナジーを送り続ける。
 力を注ぎ込まれた杖は最初、半ばほどまで魔法陣で作られた壁の奥まで突き刺さり、その邪悪な力を打ち破るに見えた。
 然しながら時が経つに連れて疲弊の色を濃くしていくローレンスの詠唱は次第に途切れがちとなり、一方で魔法陣は無機質に魔力を供給し続ける。
 やがて、突き刺さった杖は徐々に押し戻され、遂に杖はローレンスもろとも後方に吹き飛ばされ、部屋の壁に叩きつけられ、地面へと落下する。
 その衝撃で室内に地震が起きたかのような地響きが起こり、丈夫な石材で造られた壁に出来た無数のひびがその衝撃の強さを物語る。
「無駄なことだ」
 嘲う緑色に瞳を光らせた少女から発せられたのはマグダリアとは全く異なる不気味な声だった。
「くっ……」
 苦しそうに肘をついて横たわるローレンスの端正な口唇からはうっすらと血が滲み出ていた。
「ミカエルの召喚手め、援軍を呼ぶとは小賢しい真似を。……じゃが、この魔法陣ではお前等の力は一切通じん。こやつが死んで行く様を、そこからじっくりと味わうがよい」
 不気味な声が語るとおり、今やシメオンは窒息により顔色を青ざめさせ、宙に浮いた足も殆ど動きがなくなっていた。
〈どうすれば……このままでは……、バハクク様、申し訳ありません……。〉
絶望に陥り、うつむいたローレンスだったが、この時目線の先に魔法陣の壁に弾かれ、絨毯の上に転がった玉石が目に入った。
 ローレンスの脳裏にルシフェルと戦ったバハククの姿が浮かび、何かが閃く。
「ほう、立ち上がったか」
 残された力を振り絞り、壁に手を付きながら必死に立ち上がるローレンスを不気味な声は嘲った。
 苦しそうに震える杖をかかげ、ローレンスが再び念をこめると力なく散らばっていた玉石が再び輝いて浮き上がり、杖の周りに集まる。
 そして、ローレンスが杖を振りかざすと、再び玉石は魔法陣のある方向へと飛び込んで行く。
「同じ事を……」
 緑色に怪しく光る瞳は飛翔してくる玉石に侮蔑したような眼差しを送った。
だが、次の瞬間、魔法陣によって構築された魔力の壁に衝突し、再度弾かれる運命を辿ると思われた十個の玉石が壁の直前で四方へと飛び散った。
 嘲笑に彩られていた少女の顔色が変わっていく。
「こ、これはまさか……魔法陣を囲んでっ……!」
 邪悪な声に応えるかのように玉石の輝きが増していく。
 魔法陣を包囲するように整然と並ぶ玉石をもしも上空から俯瞰することが出来たならば、その配列がバハククやローレンスが秘儀を操る際に決まって形作られる玉石の構成と同一であることに気付いただろう。
「生命の樹《セフィロト》よ、魔の堡塁《ほうるい》を打ち消し給えっ!」
 ローレンスの詠唱を合図として玉石同士が或る法則性に従って互いに光で結ばれる!
その瞬間、部屋を充満していた緑色の怪しげな妖気が消えた。
「しまった。相殺っ……」
 少女から発せられた不気味な声は、しかし、その言葉を最後まで言い終えることはできなかった。
 聖なる力と打ち消しあって効力を失った魔法陣に飛燕のごとく飛び込んだローレンスが聖なる光を放つ水晶を少女の鳩尾《みぞおち》に押し当てたのである。
 おぞましい悲鳴と共に、少女はシメオンの首を締め上げていた両手を離すと、気を失ったように倒れこんだ。
 地面に投げ出されたシメオンは、最初は死んでいるかのように力なくうずくまっていたが、やがて小さく苦しそうに咳をした。
〈生きている!〉
 最悪の自体を逃れたことに、ローレンスは安堵の溜息をついた。
 その時、マグダリアの美しい形をした耳の穴から小さな蝿が飛び出したが、宙を彷徨い、床に着地したかと思うと人間ほどの大きさに巨大化した。
 細長い節からなる六本の足、ローレンスを睨む緑色の複眼、その下に伸びる細かい毛に覆われた触覚と先端に粘液のまとわりつく突き出た口、そして不快な音を発する羽音と漂う腐臭。見る者全てに嫌悪と嗚咽を催させるおぞましい肢体がローレンスの眼前にあらわとなる。
「七十二柱《ななじゅうふたはしら》の大悪魔にしてルシフェルの参謀、バアルゼブブか!」
 ローレンスはいつか師であったバハククから聞いた魔物の特徴に符合した名称を悪魔に投げつける。
「いかにも。ぬかったわ。しかし、いずれ傷を癒したルシフェル様を伴い、おぬしらを八つ裂きにする。その時を楽しみに待っているがいい……」
 先ほど少女から発せられていたのと寸分違わぬ不気味な声を醜い身体器官のどこからか発したバアルゼブブは、その直後ローレンスが残された力を持って放った水晶の杖による渾身の一撃を、瞬時に再び小さな蠅の姿になることでかわし、不快な羽音を残して部屋の半開きになった窓から夜の闇へと姿を眩ました。
「マグダリアよ、助けに来たぞ~!」
「マグダリア様~、只今参りますぞ~!」
 セバスチャンや近衛兵を引き連れた国王が部屋に飛び込んできたのはその直後だった。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

「うっ、うーん……」
 窓から差し込む光にシメオンが重苦しそうに目を覚ました時、最初はぼやけていた視界の中に一人の女性の姿が目に入った。
「うっ、うわーっ!」
 その姿をマグダリアだと認識したシメオンは思わず叫び声を上げ、ローレンスが座っていたのとは反対側の床へ転げ落ちた。
「目覚めましたね。マグダリアならもう大丈夫。一昨日《おとつい》の夜あなたの首を絞めたのはバアルゼブブという悪魔に取り憑かれていたからです。もう心配ありませんよ」
 遠くからシメオンを見守っていたローレンスは優しくシメオンを諭す。
不気味な緑色の眼で襲い掛かってくるマグダリアから必死に逃げようとしながら指笛を鳴らしたが、地面が妖しく光りだして力が抜け、少女の細い腕からは考えられない怪力で首を締め付けられたその時点からベッドで目覚めて自分の命を狙った少女と目が合うまでの間シメオンの記憶はぷっつりと途絶えていた。
「……そうだったのか。マグダリアさん。ごめんなさい。……えっ?一昨日?」
ローレンスの言葉と愛らしさを取り戻したブラウンの瞳から、暫くして何とか状況を把握したシメオンは我に返ってマグダリアに謝罪したが、同時にローレンスの言葉に驚いてこう言った。
「ええ、あなたは二晩眠っていましたよ。絞められた喉に問題はありませんでしたが、あなたはミカエル召還を妨げる魔法陣の中にいましたからね。潜在能力の分だけ、酷く消耗したのでしょう」
「ごめんなさい。私、別荘にいた途中から何も覚えていなくて……」
 ブロンドの瞳が潤《うる》む。
「えっ?……ははっ、気にすることないよ」
〈あの晩の記憶もないのか……。〉
作った笑顔の裏側でシメオンはひどく落胆した。
「どうやら別荘にいた時、バアルゼブブに意思を奪われたようですね。おそらく山賊にはバアルゼブブの手下が乗り移っていたのでしょう」
 ローレンスが優雅な所作で解説を行った。
 間もなくして、シメオンが目覚めたという報せを耳にした国王とセバスチャンが執務を中断して駆けつけて来る。
「おお、無事だったか。救世主殿!」
 国王はシメオンの手をとり無事を喜んだ。
「ええ、おかげ様ですっかり。もう元気一杯です」
 気を取り直してシメオンは国王に応える。
「シメオン様、御無事でなりよりでございます。……しかしながら、シメオン様は あの時、何故マグダリア様の部屋にいらっしゃったのでしょうな?」
 セバスチャンも国王に続いてシメオンの快気を祝ったが、その後執事の厳格な眼差しとなり、シメオンに問い掛けた。
「えっ?それはっ、そのっ……」
 恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら、シメオンはしどろもどろになる。
 その仕草を眼にした国王は、
「うむっ、シメオン殿。早まってはいかんぞ。年頃になれば皆恋をし、家庭を作る。儂とてそうじゃった。……だが、それにも順序というものがある。王家とあっては猶更《なおさら》じゃ。シメオン殿には、まず修道院で力を蓄え、堕天ルシフェルを打ち倒してもらわねばならぬ。それが出来ぬうちにはマグダリアとの一切の交際を認めるわけにはいかん!」
 と厳粛な言葉をシメオンに投げつけた。
「は、はい……」
 突き放すような国王の言葉に、シメオンは畏縮したように返事をしたが、その後で王女の父親は、
「……じゃが、無事シメオン殿が使命を成し遂げて下さったおりには儂も是非シメオン殿とマグダリアの交際を応援させていただこう」
と言って豪快に笑い、マグダリアも少し困ったような表情をしながら微笑んだ。
〈今まで世界を救うなんて、全然実感無かったけど、一つ、これだけは言える。彼女を守りたい!〉
 心なしかしとやかになっているように感じられたマグダリアの微笑を眩しそうにシメオンは見つめながら、誓った。
「シメオン、体の具合はいかがですか?動けますか」
国王の笑い声が止む頃、ローレンスがシメオンに質問を投げかける。
「ああ、大丈夫だ」
 ベッドに座っていたシメオンは立ち上がり、四肢を伸ばし、両手を振り回して応えた。
「よろしい。それでは出発するとしましょう。国王様、出発の準備は整っておりますでしょうか?」
 覚悟を秘めた表情でシメオンは頷いたが、流石の国王も驚きを隠せず聞き返そうとする。
「勿論、整っておるが、それにしても早すぎはせんか?シメオン殿も目を覚まされたばかりだし。……いや、シメオン殿にとっても、ここにいるより一刻も早く安全な修道院に着いた方がよいじゃろう。……もう言うまい。セバスチャンよ、シメオン殿とローレンス殿を馬車までお連れするのじゃ」
「かしこまりました」
 それからローレンスとシメオンが、裏口から新たに用意した余り目立たないが立派な三頭立ての馬車で宮殿を後にするまでにいささかの遅滞もなかった。
非公式ながら国王や二人の皇女にセバスチャン、そしてマグダリアが見送る中で馬車は出発する。
 荷台に乗り込んだシメオンは馬車の後部扉を開け放ち、手を振る。その視線はマグダリアに注がれていた。
 しかし、この時マグダリアの視線がシメオンにではなく、シメオンの背後で馬を操るローレンスの後姿にのみ注がれていることにシメオンは気付かなかった。

     迷路

 都から修道院まで、馬車で一週間ほどの道のりを、ローレンスとシメオンは順調に、そして快適に進んだ。
 これまで乗っていたよりも二周りほど大きな、広々とした旅行用馬車、絨毯の下にクッションの敷かれた柔らかい床、多すぎるくらいのソーセージやピクルスといった保存用食料、寝心地のいい寝具、そして『国きって』という国王の自負に恥じず、多少の風雨をものともせず予定通りの行程を刻む疲れを知らない艶やかな|三頭の名馬《トロイカ》。
 一日の旅の終着点となる宿場に着けば、特にあらかじめ宿泊場所が指定されているというわけでもなかったが、到着先で既にシメオンとローレンスの宿泊する手筈が完璧に整っており、その宿最高の部屋があてがわれ、その土地最高の御馳走が振舞われた。
 そして翌日出発の際に宿代を払おうとするや否や、宿の亭主が血相を変えて、
「救世主様から御代を頂くなど滅相もない」
 と慌てるのが常だったが、喋り好きな女将が勤める旅館では、後ほど国から十分な報酬が入ることを知ることができた。
 ちなみにローレンスは宿屋の一階に設けられた料理店などで時折彼等を伺う視線を察していた。
 しかし、その視線に敵意や殺意は込められておらず、ローレンスは国王の遣わした間諜らしい彼等が夜っぴて宿が襲われたり、馬車が盗難に遭わないよう番をしていることに気付いていたので、シメオンにはそのことを告げず、ローレンス自身、敢えて気付かないような素振りをしていた。
 それよりも、ローレンスはシメオンがバアルゼブブに襲われた際ずっとわだかまっていた『悪い予感』が今では消えていることに安堵していたのだった。
 一方シメオンはそんなことは露知らず自らの恵まれた境遇を手放しで喜び、近くにある温泉で旅の疲れを取ったり、ローレンスの許可を得て宿主の案内で近くの名所を案内してもらったりしていたが、そんな彼にも旅をするに連れて唯一の気がかりが芽生えていった。
 それは、宿や旅の道すがらで耳にする修道院を取り巻く森に関する情報だった。
「やはり修道士様の住む場所だけあってのう。森の手前からは山頂付近に修道院の建てられたストア山が高くそびえたっているのが眼前からはっきりと目に取れるのじゃが、どうしてもそこまで辿りつく事が出来ん。儂も若い頃、興味本位で一度だけ修道院に行ってみようとその森に入ったのじゃが、どうやっても山まで辿り着くことはできんかった」
 ある宿で出会った老人はこう語り、また道の途中で出会った若い旅人は、
「迷わずの森へ行くのかい?やめときなよ。あそこはストア山へ行こうとして入り込んだって何回試してみてもすぐに森の外へ出ちまうんだから。森の中で迷っちまうこともない。預言者様でなきゃ通れないようになっているらしい。あれ、ひょっとすると預言者様かい?」
 と僧衣姿のローレンスに驚いた。
 旅が終わりに近付き、遠くに岩肌の露出した峻厳《しゅんげん》なストア山が臨むにあたって不安に駆られたシメオンが尋ねると、
「おそらく、何らかの結界が張っているんでしょうね」
 ローレンスはうろたえる素振りもなく、冷静に答える。
「けっ、結界……」
 マグダリアの部屋で窮地に陥った際怪しく緑色に光った地面の緑色を思い出したシメオンは冷や汗を流す。
「心配ありませんよ。これまで得られた情報から察するに、結界といっても預言者の能力を判別してそれ以外の侵入を防ぐという目的に作られた結界のようですし。迷うこともなく森からすぐに出てしまうというのがその証拠です」
 シメオンの表情を察したローレンスは端麗な表情を微笑ませた。
 やがて木々の向こうにストア山がそびえたつ迷わずの森の入り口に馬車が近付いたとき、馬車の手綱を引いていたシメオンは入り口付近の小さな岩に腰掛ける一人の老人の姿を目にした。
「ここから先は霊山ストアの領域、馬車を捨て徒歩で行けい!……もっとも、馬の通れる道でもないがな」
 両手で杖をついた、いかにも厳格そうな眼つきをした白髪白髯の老人は、シメオンの乗る馬車が近付くとしゃがれた声で一喝した。
 驚いたシメオンは慌てて馬車を止め、慌てて御者台から飛び降りる。隣には既にローレンスは落ち着いた様子で佇《たたず》んでいる。どうやら老人に一喝されるよりも前から馬車を降りていたようだ。
 それからシメオンが森の中を見渡すと、道はなく岩場や低木、巨大な木々の根が地面に張り付いており、老人が言う通りとてもじゃないが馬車が通れそうにもない。
「馬と馬車、どうしよう……」
 心細そうにシメオンがローレンスに相談すると、突如老人が、
「あそこにいる連中に持っていってもらえばいいじゃろ」
 と口を開き、鷹揚に地面に落ちていた小石を拾い、放り投げる。
 小石は老人が座ったまま投げたとは思えない飛距離を飛んで、馬車の遥か後方、先程通り過ぎた道の傍らにあった大きな岩の裏側に落ちる。
「ここにある、馬と馬車、お前らが都に持ってけい!」
 一瞬、人影が覗いた大岩に老人は怒鳴りつけた。
「お爺さんはここで何をしているんですか?」
 老人が投げた小石の飛距離、岩陰の人影、はたまた老人の怒号に驚かされたシメオンが恐る恐る尋ねると、老人は、
「ふんっ」
 と不機嫌そうに鼻を鳴らし、
「お前のような不届き者の為にここで見張りの番をしているのじゃ!」
 と再び一喝し、シメオンとローレンスを射るように交互に睨みつけてから、僧衣のローレンスに視線を定める。
「コヤツは、紛れもない預言者の力を持っておる。その力が体中から滲み出ておるし、何よりもその霊気が清廉潔癖を証明しておるわ。森を抜ける能力も、そして資格もあるじゃろう……。しかし!」
 老人は少し意地悪そうにシメオンを振り返る。
「お主は怪しいのう。その力が全く感じられんわ。……そこでじゃ!」
 ローレンスとシメオンを同時に見つめる老人。
「お主らは別々に森へ入ってもらおう!」
「えっ!?」
 老人の宣告に度肝を抜かれたシメオンは老人を、続いて救いを求めるようにローレンスを見つめる。
シメオンがローレンスを振り向いたのは、当然ローレンスなら反論してくれるだろうと考えてのことだったが、結果はそうはならず、先ほどから何かを看取していたかのようだったローレンスは、一瞬考えてから、
「わかりました」
 と老人の提案に同意した。そして、シメオンに
「あなたなら出来ます。精神を集中させて、出口を感じ取るのです」
 と助言すると、水晶の杖を片手に森へと分け入っていった。やがて、ローレンスの姿は森の中へと消えて行く。
 シメオンはその後姿を見ながら狼狽し、まごついていたが、
「お前の番じゃ、行って来い!」
 という老人の怒鳴り声に押され、逃げるかのように森の中へ駆け込んでいった。

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 大木に茂る枝葉に太陽の光を奪われた森の中をローレンスは歩んでいた。森の外からはくっきりとその姿を顕わにしていたストア山の位置も、ここからは全くわからない。
 鳥達の囀《さえず》りや虫の鳴き声が唯一森の静寂を打ち消すように響いているが、美しいその鳴き声も今のローレンスには心細く感じられる。
〈きっと大丈夫だ。真っ直ぐ進んでいるんだし、そして何よりも僕はミカエルを召喚した預言者なんだから、出口に出られるはずだ。自分を信じろ!〉
 森に入ってから幾度となく心の中で叫んで来た言葉をシメオンはもう一度繰り返す。
 大木の根を乗り越え、草を掻き分ける。暫くして薄暗い視界が明るくなってくる。
〈出口だ!〉
 最後の瞬間、地面の蔦《つた》に足を取られ、転がりながらシメオンは森の外へと抜け出す。
 森を抜けた達成感と安心感に包まれたローレンスだったが、顔を見上げた瞬間、その表情は驚きに変わった。
「そ、そんな……」
 シメオンの表情が驚きから落胆へと変わる。無理もない。顔を上げたその先には、先ほどと同じ杖をついて石に座る老人の姿があったのだから。
「はっはっはっ!真っ直ぐ進んでいるのだから森を抜けられるとでも思ったか!ほら、もういっちょ行って来い!」
 それ見たことかと老人は愉快そうに笑う。
「ちっ、ちくしょーっ!」
 悔し紛れに、こう捨て台詞を老人に残してシメオンは再び森へと駆け入り、森を一直線に突き進んでいくが、暫くしてから思い立ったように森の中で立ち止まり、拳を掌に叩きつけた。
「あっ、そうか。真っ直ぐ進んで入り口に戻ったんだから、その逆を、つまりは途中で引き返せば出口に出れるんだ。きっと、この結界はそういうからくりなんだ」
 そう独り言を言うと、シメオンはやにわに後ろを振り返り、入り口だった方向に向かって走り出した。それから暫くして、再び薄暗い森の視界が明るくなり、出口が近付いてくる。
〈今度こそ出口だ!〉
 そう、心の中で叫びながら森の外へ出たシメオンだったが、彼を待っていたのはローレンスでもストア山でもなく、相変わらず石に座った老人だった。シメオンは思わずその場に座り込み、空を仰ぐ。
「今度は、引き返せば出口に出られるとでも思ったんじゃろ。図星か?このままでは日が暮れてしまうぞい」
 再び笑う老人。
 シメオンは一瞬老人に腹を立てたが、すぐに自分が情けなくなった。
〈大賢者バハククが命を賭けてまで守ってくれて、ローレンスが一生懸命守ってくれて、国王様まで手助けしてくれて、それでようやっとここまで来たっていうのに、こんなところでなにやってるんだろ。〉
 力なく俯《うつむ》いたシメオンの心情を知ってか知らずか老人はふと笑いを止め、厳格な面持ちでシメオンに語りかける。
「これも修行じゃ。瞑想《めいそう》し、精神を集中させよ。出口まで辿り着くのではなく、森に出口を訊くがよい。ほら、お前にはバハククから託された玉石があるじゃろうが……」
「バハククの事を何故!?御爺さんは一体……」
「修道院まで辿り着ければわかるて」
 驚くシメオンに老人はそう言葉を残すと、霧の様に姿を消した。
 シメオンは暫く茫然と立ち尽くしていたが、再び森へと入っていく。その表情は先ほどとは別人のような決意に満ちていた。
 再び森の中ほどまで真っ直ぐ進んだが、今度は直進するのでも引き返すのでもなく、目に入った平坦な座るのに手頃な岩に胡坐をかき、両手を組み合わせ目を閉じ瞑想を始める。
 するとやがて六芒星十字の腕輪が輝き出して玉石が浮遊し、あのバハククやローレンスが玉石で秘儀を行うのと同様の幾何学的な配列を描いたかと思うと、一陣の風が吹き、太陽が入り込まない筈の薄暗い森の中に一閃の光が差し込んで、それが玉石に反射し何かを照らした。
 ゆっくりと目を開けたシメオンはその光が森の中で一際大きな老木の幹に注がれているのを目にすると、宙に浮く玉石に六芒星十字の紋章をかざす。玉石は紋章に引き寄せられてバハククの遺髪に紡がれて立ち上がるシメオンの腕に巻き付く。
 玉石はシメオンの腕の中で依然として輝き続け巨木の幹を照らし続ける。
 巨大な老木に到達したシメオンが光の照らす幹に手を触れると、その手は光の奥へと吸い込まれていく。シメオンは迷うことなく光の中に全身を預けた。
 次の瞬間、シメオンの身体は光のドアから草原へと投げ出されていた。空を仰ぐと太陽が輝き、眼前に岩肌を剥き出したストア山がそびえたち、傍《そば》にはローレンスがいる。
「おめでとう。無事、森を抜けましたね」
「ああ、有難う。それにしてもあの御爺さんの正体は何なんだろう?」
 シメオンはローレンスの差し出した手に助け起こされながら、感謝と、そして疑問を呟く。
「きっと行けばわかりますよ」
 何かを仄めかすように答え先に進んだローレンスに続いて、シメオンはストア山を登り始めた。


     修行

 登攀《とうはん》を開始してからどれだけの時間が流れただろう。
道なき険路を歩き、時には目の前に立ちはだかる岩盤だけを見つめ、両手両足を固定させ一歩ずつ険しい崖をよじ登っていたシメオンが、荒い息を吐きながらふと我に返ったように後方を振り向いたとき、中空に高く舞い上がっていた太陽は、今や地平線にその半円を沈ませていた。
 遥か下方、険峻な稜線の先には試行錯誤の末に通り抜けた森の木々が、まるで砂粒のように小さく感じられたが、不思議な程に恐怖は感じなかった。
 これまで、シメオンは心の隅に修道院が何故このような遠隔の地に位置しているのか理解しがたい気持ちを抱えていたが、こうして山腹から振り返った瞬間、孤絶と天上との対話を求める求道者達が、その仲介の地に相応しいこの山中に居を構えるのは寧ろ自然なことのように感じた。
「さあ、そろそろ着きますよ」
 先を行くローレンスの声にわずかばかりの乱れもないのは流石としかいいようがない。
「ああ」
 そう応えてシメオンが急斜面を登りきると、どうやら山頂付近の平坦な起伏のない箇所に到達したようで、それまで岩壁に遮られていた視界が開け、その先には礼拝堂と思しき建物と小さな窓の沢山付いた住居棟からなる、簡素な石造りの建物が目に入った。
 その山中に剥き出した岩壁と同質の屋根や壁面からなるその外観は、厳然とそびえ立つストア山の威容と調和しており、世を忍ぶ隠者の住処としてはうってつけのようだったが、一方でシメオンにはあのバハククの命を奪った人外の勢力に抗する本拠地であり、ローレンスのような超絶的な秘術を操る預言者たちを育成する組織の砦としては頼りない感じがしないでもなかった。
 六芒星十字を配する扉から礼拝堂へと入っていく。
 だだっ広い壁面に天使や古代の聖者を描いた絵画が配され、中央奥には祈りの祭壇が設けられ神聖な雰囲気を漂わせていたが、目に付いたのはそれぐらいであり、祭壇に向かって平行に造られた椅子も簡素な石製で、外観と同様に素朴だった。
 シメオンとローレンスが礼拝堂で佇んでいると、やがて部屋の奥隅にあるドアが開いたかと思うと、黒い修道服に身を包み黒衣のフードで頭部を覆った一人の修道僧が姿を現した。その面貌はフードで出来た影のせいで闇に埋もれている。
「ミカエルの召喚者とバハククの弟子よ、長旅御苦労じゃった。儂が修道院長のシトーじゃ」
 最初に登場した修道僧がシメオンとローレンスにこう語りかけそのフードを脱いだとき、シメオンは聞いたことのある凄みのある声と、森の入り口で見た、厳格そうな顔つきと顎ひげに驚きの声を漏らした。
「あっ、あれっ、あの時の御爺さん!」
「爺さんとは何じゃ、けしからん!まあよいわ。……ところでバハククの弟子には見破られていたみたいじゃの」
 シトーはシメオンを一喝した後で冷静な表情を崩さないローレンスの方を振り向き、語りかけた。
「私はローレンス、こちらはシメオンにございます」
 丁重に頭を垂れ、ローレンスは続ける。
「私が驚いていないのは、最初森の入り口でシトー殿と出会った際、師バハククとは多少波動は異なりますがそれに匹敵するエネルギーを感じたからです。それにバハクク殿からは何度もシトー様のお名前を聞き及んでいました」
「ふん、で、バハククは儂のことを何と?」
 シトーは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「恐れながら……、腐れ縁のひねくれた頑固爺と」
 ローレンスは微笑する。
「ふん、呑んだくれの奴らしいわい。……ところで奴は……逝ったか……」
 シトーは再び鼻を鳴らし憎まれ口を叩いたが、ローレンスの持つシトーから受け継いだ水晶の杖に目をやると呟くように尋ねる。
「はい……。シメオンを、そして私や村の人々、そして何よりも私達全ての未来を守るため師バハククは自らの命と引き換えにルシフェルを退けました。しかし……」
 ローレンスは視線を落とす。
「……ミカエルでなくてはルシフェルを倒すことは出来んし、それはバハククにも儂にも出来んことじゃ……。そこの小僧意外はな、ふん。じゃから、コイツを連れてここまで来たんじゃろう」
 シトーはローレンスの言葉を引き取り、尋ねた。
「はい。息を引き取る間際、師バハククが安全な修道院に一刻も早くシメオンを移し、そこで堕天使ルシフェルに対抗すべく力を養うよう言い残されました」
 頷くシトー。
「うむ、ここまでの危険な長旅、御苦労じゃった。小僧がミカエルを召喚したのはこちらでも感知しておったのだが、近くに手の空いている修道士が配置されておらんでな。ルシフェルの復活と呼応するように魔物の強さも発生する頻度も上がり、死傷者も増え、修道士不足に陥っているのが現状じゃ。都に修道士を常駐することさえままならん……」
 険しい表情が一瞬苦渋に歪んだが、すぐに崇高な冷静さを取り戻し、続ける。
「まあ、バハククが育てただけあって、お主ほどの使い手は修道院にもそうはおらん。心配はしておらんかったがの……。ところでルシフェルが再び力を取り戻すまでの期間について、バハククは何か言っておったか?」
「およそ三年と」
「三年か……。それだけあれば、何とかなるじゃろ。……確かシメオンじゃったな」
 シトーの鋭い眼光はシメオンを刺す。
「は、はい!」
「遥か昔、知恵《ダート》の実を食べてしまった人間は神と天使の加護を失った。しかし、ルシフェルが復活した後、生命の樹《セフィロト》に宿りし力を与えられし人、すなわち預言者が顕れた。預言者たちはこれ以上の罪を犯さぬよう、人里を離れ、修行の日々を送っている。しかし、彼らとて人が最初に犯した過ち、すなわち知恵《ダート》の実を食べてしまった過ちを免れることは出来なかった。つまり、原罪の罰として生命の樹《セフィロト》の奥義、知恵《ダート》の力は与えられなかったのじゃ。しかし、神のはからいじゃろうか、世に一人だけ、神より与えられし知恵《ダート》の力を宿したる『無原罪の御宿り』が遣わされた。その『無原罪の御宿り』だけがミカエルを召還することができる。それがお主じゃ!」
「『無原罪の御宿り』……」
 シメオンは初めて耳にする言葉を繰り返す。
「お主はこれから修道士となり、祈りと禁欲、労働、そして何よりもルシフェルを倒すことの出来る、ミカエルの召喚者に相応しい力を身につけるための修行を行ってもらう!悪徳を避け、穢れのない暮らしの中で自らを磨き、力を高めよ!」
「はっ、はいっ!」
 シメオンは厳粛な使命に身を震わせて応えたが、シトーが
「ちなみに、霊山ストアは女人禁制、修道士の精神調和を惑わし、その力を失わせる色欲の沙汰はもってのほか!」
 と宣言した際に思わず、
「えっ……!?」
 と、女人という言葉にマグダリアの美しい妖精のような姿を想像し、シトーが示した修道士としての禁忌に、あからさまな驚きと不満を含んだ声を上げそうになったが、ルシフェル討伐の後はマグダリアとシメオンの恋路を応援すると言った国王の約束を思い返して言葉を飲み込む。
「修道院の歴史の中で、自らの力を悪事に用い、或いはその力で人を無闇に殺生した外道はすべからくその力を失っておる!色欲の戒を破った場合もじゃ!」
 すぐさまシトーの怒号が続く。
「修行は過酷、儂が直々に痛めつけてやるわ!お主に与えられたミカエル召喚者としての資質の分だけその責務も甚大じゃ、覚悟しておけ!」
「……はいっ!」
〈ここで頑張って数年後ルシフェルを倒せば、新たな人生が僕を待っている……。〉
 期待と不安を交錯させながらシメオンはふと傍らにいるローレンスに目を遣る。
 一方でシトーもローレンスに視線を移し、再び口を開く。
「ところでお主はどうする?今までバハククとそうして来たように各地を巡りながら魔物と対峙する日々をおくるもよし、それとも望むなら世間の暮らしに溶け込み、俗世の暮らしを送るのも構わん。自然とその能力は失われるじゃろうが……。まあ、どうしてもというならここに置いとかんわけでもないがの……」
「師バハククと各地を放浪していたのはミカエルの召喚者捜索の為、それに私はもともと教会に生まれた身、禁欲的な暮らしの方が性に合っております。御許しが頂けるならローレンスの修行に力添えさせてください」
 少々屈折したシトーの提案に何ら血色を変えることなくローレンスは修道院滞在の願いを申し出る。
〈教会の出か、なるほどな……。〉
 この時、シメオンにはローレンスがその所作一つ一つに醸し出す清浄な雰囲気の理由を幾分か理解したような気がした。
「うむ、それではシメオンの隣に部屋を用意しよう」
 シトーが申し出を了承して間もなくである。安心感からか先程から感じていた素朴な疑問がシメオンの口を突いて出た。
「だけど、ここで修行をするのか。何か、ちょっと想像と違うな。それにもし魔物たちがやってきたらどうするんだろ……人気もないし」
「ふん、小僧ちょっとついて来い」
 シトーはその言葉に再び大きく鼻を鳴らすと後ろを振り返って歩き出し、背後からシメオンとローレンスに指で合図をする。
 間もなくシメオンとローレンスがシトーに連れられてやってきたのは祭壇後方のドアから繋がっているもう一つの小さな聖堂で、そこには過去の聖人達の遺物らしい聖杯や僧衣、棺などが整然と陳列されている。邪を寄せ付けないような荘厳な雰囲気が漂ってはいるが、しかしながらだからといってそこ以外に出入り口があるわけでもない。
 シメオンが不審に駆られたその時である。シトーが部屋の隅に移動したかと思うと、何もないその空間で何やらブツブツと詠唱を始めた。
その次の瞬間である。何もないかに思われた片隅の地面がぽっかりと穴を開け、地下に続く階段が現れたのである。
「ついて来い」
 驚くシメオンを省みることもなく、シトーは階段を降りて行く。ローレンスがシトーに続き、最後にシメオンが臆病風に吹かれながらもその後について行く。
シメオンが暫く階段を降りて行くと、上方でフッと音がして振り返ると出入り口がその姿を消し、壁面に設置された松明の薄暗い光のみが階段を照らす。
細く暗い階段を下り終えると、左右に扉が続き、天井に鍾乳石の垂れ下がった広い通路が姿を現す。
「こんな場所が……」
 シメオンは思わず感嘆の声を漏らした。
「ストア山は巨大な地下要塞《カタコンベ》となっておる。数十年前、ここでルシフェルとの決戦が行われ、地上の聖堂はすぐに破壊されたが、ここは落ちんかったわ」
老人の口から、迷わずの森でシメオンが聞いたあのしわがれた哄笑が飛び出る。
それからいくつもの分岐を越えた先の扉の前でシトーは足を止めた。
「ここじゃ」
 そう言って、シトーが開け放った扉の先にある光景は、シメオンは勿論、滅多に動じることのないローレンスにすら幾分かの衝撃を与えたようだった。
 松明の灯った部屋の内部には十数人もの黒衣を着た修道僧達が大きな環を造るように座禅を組み、熱心に詠唱を唱えている。
 その異様は勿論のこと、彼等から溢れ出るオーラの流れがシメオンにすら痛いくらい感じられた。
 薄暗い室内の中央には、大きな円形のシメオンが住む大陸地図が置かれ、その上には黒衣の詠唱者たちの能力によってそれぞれ規模と色調・濃淡を異にして光る白と黒の無数の点滅が輝いている。
「ここが修道院の肝となる堕天と悪魔、それに修道士の居場所を探査し、そして預言者の資質を持った世人を発掘するための特務機関じゃ。優れた預言者の資質を持つ高僧達が、交代で昼夜休むことなく探査を続けておる。ほぼ全ての計画はここから得られる情報を基に立案されておる」
 薄闇から漆黒に溶け込んだシトーの声が聞こえる。
「じゃあ、僕達の行動も?」
「うむ。ここに辿り着くまでは把握しておった。しかし、お主の能力はここから感知できないほどに微弱。バハククがいなければお主は魔物の餌食となり、今はこの世におらんじゃったろう」
 質問にシトーの残酷な回答を返されたシメオンの背中には冷や汗が流れた。
「この地図からルシフェルの居場所を探ることは出来ないのですか?傷ついたルシフェルならば今のシメオンでも恐らく止めは刺せる筈」
 シトーの言葉からバハククの死を想起したのだろうか、滅多に自分から口を開くことのないローレンスが質問を投げ掛ける。
「それが出来れば今頃ここにおらんわ。……ルシフェルは、或る時は孤島の火山の中、或る時は深海の奥底、また或る時は極寒の局地でその羽を休めると言われておる。更に奴は自らの邪気を操る術を身に着けておる。悔しいが、ここから探索することは不可能じゃ……」
「そうですか……」
 ローレンスの声が落胆に沈む。
「……じゃが、しかし」
 シトーは冷酷な回答に補足を加える。
「一つだけ間違いなく言えることがある。それは、間違いなくルシフェルがシメオンの命を狙っていると言うことじゃ。いずれ、きっとルシフェルは大軍を率いてストア山に攻め入るじゃろう。それが決戦の時となる。……地下要塞《カタコンベ》には長い戦いを勝ち抜くための貯蔵庫は勿論、宿泊施設や怪我人の為の治療設備、東西の秘儀を集めた巨大図書館に広大な修行場、必要な物は全て揃っておる。来るべき戦いに備え、力を養うがよい」
 二人に語るしわがれたシトーの声には何人にも揺るがせない壮絶な決意が込められていた。
 こうしてシメオン達の修道生活が始まった。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

 修道院での暮らしはシトーの述べた通り、祈りと禁欲、そして労働を基調とした、節制と謹厳さより成り立っていた。
 起床は太陽が昇るより早く、その後数時間が祈りと瞑想に費やされた。
「意識を無にして呼吸を調和させ、生命の樹《セフィロト》を思い描くのじゃ」
 黒衣に身を包み、祈祷台に六芒星十字の腕輪を置いて目を閉じ、両膝に手を付き座禅をするシメオンにシトーは語りかける。
「生命の樹《セフィロト》は神の肉体を象徴しておる。それは王冠《ケテル》、洞察《ホクマー》、理解《ビナー》、慈悲《ヘセド》、公正《ケプラー》、 美《ティフェレト》、永遠《ネツァー》、反響《ホド》、基礎《イエソド》、王国《マルクト》の属性《セフィラ》より成り、雷の閃光により互いに関連しておる」
 シトーの声に従ってシメオンが呼吸を整え、心像を浮かべ精神を集中すると、無造作に於かれていた玉石が配列をなし、その一つ一つが順に光を帯びていく。
「王冠《ケテル》の神的属性は洞察《ホクマー》に作用し、神の霊感を顕現させる。そしてその霊感は洞察《ホクマー》に於いて理知として平衡を保ち、この三つの属性《セフィラ》は至高の世界を表しておる」
 生命の樹《セフィロト》は上方に位置する三つの属性《セフィラ》が光を放ち、互いに光線で結ばれ三極構造《トライアングル》を形成する。
「一方洞察《ホクマー》の理知は慈悲《ヘセド》と公正《ケプラー》に至り、愛と正義、相反する原理は美《ティフェレト》に自らの居場所を見出すじゃろう。この三つの属性《セフィラ》は神の偉大なる魂を、更に 美《ティフェレト》 は洞察《ホクマー》・理解《ビナー》と結び付き精霊を象徴する」
 更に三つの玉石が光を放ち始め、互いに結びつき新たに二つの三極構造《トライアングル》を形作る。
「 美《ティフェレト》 はこうして永遠《ネツァー》、反響《ホド》に伝わり、永遠の勝利と、その反響としての栄光を手にする。この三つの属性《セフィラ》は神の使いがこの世にもたらす力を表しておる」
 新たに二つの属性《セフィラ》が輝いて結びつき、更にもう一つの三極構造《トライアングル》を形作る。
「そして、その力が万物の属性を含んだ基礎《イエソド》に至り、王国《マルクト》を通して降臨するとき、『無原罪の御宿り』に秘められし知恵《ダート》の力が顕れるのじゃ!」
 シトーが叫び、シメオンが目をかっと見開いた瞬間、属性《セフィラ》は更に有機的に結びつき、眩く光って中空に集結し、巨大な光芒を放った。
「神の顕れである自らの肉体と神の肉体である世界は本質的に同一じゃ……その感覚忘れるでないぞ」
 これが瞑想を終えたシメオンに決まって口にするシトーの言葉だった。
 こうして瞑想を終えると、ようやく食事の時間となった。朝食《ブランチ》は質素そのもので、塩で味付けしたパンと野菜、喉の渇きを癒すのは水だけだった。
 食事となるパンと野菜は、その後の労働によって賄われた。修道院の周辺には断崖を縫うようにして麦と野菜の畑が点在しており、修道院内にはパンを作るための粉引き所や焼き釜も存在した。
 もともと父の畑仕事を手伝っていたシメオンにとってこの労働の時間は憩いの時であり、作物を無事育てる為の様々な試みは数年後に待ち構えている決戦の恐怖と、時々マグダリアを想像したときに生まれる自らの邪念を忘れさせ、肉体的消耗は快適な眠りを約束した。
 余談だが、シトーは先の大戦以来滅多にストア山を出ようとはせず、迷わずの森の入り口でローレンスをからかったのは、彼なりの歓迎だったのだということをシメオンが修道僧の一人から聞かされたのは、この畑仕事の合間だった。
ちなみに畑では葡萄も栽培されており、収穫された葡萄は労働後の正餐で葡萄酒として供された。
 正餐後、消灯前の祈りと瞑想までの間シメオンに課せられた修行はシトーの言葉通り過酷だった。
 ある時、ローレンスを伴ったシトーは、地下要塞《カタコンベ》の地下深くまでシメオンを引率し、傍の水面を指差してこう言った。
「この地底湖は溺れれば命が助からんどころか死体を捜すことすら出来ん深く入り組んだ湖じゃ。じゃが、預言者であれば水面を渡るは初歩の初歩。獅子は自らの子を千尋の谷に落とすという……」
「まさかっ、えっ?」
 シトーは驚きの表情を浮かべたシメオンを背後からしたたか蹴り、シメオンはその勢いで地底湖の中央付近に飛び落ちた。
〈う、嘘だろ?がはっ……ごぼっ……。〉
 シメオンは厳しい視線でシメオンを捉えるシトーと、心配そうにシメオンを見つめるローレンスを視界にしながら水面付近で暫くもがいていたが、やがて力尽き、透明ながら底の窺い知れぬ地底湖の水中へとその身を沈めていった。
 間もなくシメオンの生死を案じたローレンスは水中に飛び込もうとしたが、その時シトーはローレンスの肩を押さえて静かに、
「シメオンを信じるのじゃ」
 と語った。
 その直後である。地底湖の底で何かが光ったかと思うと水面の中央から巨大な穴が開いたように水面に円柱状の空間が発生し、大量の地底湖の水が溢れ出し、周囲を濡らすと同時にそこから光を帯びた気を失ったシメオンの姿が浮き上がり、水面の上方に浮遊した。
「これが『無原罪の御宿り』の力……」
 驚異的な飛翔力で地を飛び、シメオンを抱きかかえて地底湖の対岸に着地したローレンスを視界に捉えながらシトーは感嘆の声を漏らした。
そしてまたある時、シトーはシメオンにストア山頂で三日間の瞑想を命じた。
 シメオンは最初の数時間、熱心にシトーから学んだ瞑想法を守っていたが、やがて集中力を失い、一日目は退屈に、そして二日目は絶食による飢餓に苦しめられた。
しかしながら飢餓による苦しみの峠を越えた三日目からシメオンに変化が訪れる。
飢えの感覚が次第に無くなり、自らの内面的苦痛が無くなっていき、遂には自らを自己存在としてではなく、世界を構成する有機的組織の一つとして捉え、生命の樹《セフィロト》を自らの中にはっきりと感じた。
 こうして瞑想の終焉を告げる朝の光を感じ、シメオンが眼を見開いたとき、自らの体が中空を浮き上がっており、そしていつの間にか眼前に現れた大天使ミカエルが天の翼を羽ばたかせていることにシメオン自身が誰よりも驚いたのだった。
「遂にミカエルを自ら召喚しおった」
 ローレンスと共に遠くからシメオンを見守っていたシトーは感嘆の声を上げた。
 一方、修道院での修行の中でシメオンの預言者としての能力と同様、ある事柄が育まれた。それは、シメオンとローレンスの友情だった。
 その発端となったのは、修道院に到着してから数日後に起こったシメオンにとっては思いがけない出来事だった。ローレンスが病に伏せったのである。
「これは過労じゃな。とはいっても預言者が倒れるくらいじゃ、並大抵の過労じゃない。おそらく何年にもわたる疲労が蓄積していたのが、ここに来て表に出たんじゃろう。まあ、あの第賢者バハクク殿の供を幼少から勤め、ミカエルの召喚者を求めて諸国を延々と旅していたのじゃから、無理もあるまい……」
ローレンスの治療にあたった治療術に長けた老僧はその手から不思議なオーラを発しながら、ぐったりと寝込むローレンスに手を翳し、暫くしてから心配そうにローレンスを見守るシメオンに診断結果を述べると、いくつかの薬草を処方した。
 この時までシメオンにとってローレンスは、彼を守る超人のような完全な存在だった。そのローレンスがシメオンの見守る中、ベッドで荒い息をたてている。それはシメオンにとって信じられない出来事ではあったが、同時にローレンスも一人の人間なのだと気付き、それが何故かシメオンには喜ばしかった。
 それから一週間ほど、全快するまでシメオンは熱心にローレンスを見舞った。
加えて、黒衣の修道服を規則付けられていた修道院で、その集団生活を完全に受け入れるかに思われたローレンスが自らの白い僧衣に対して過剰にこだわり、頑なにそれを変えようとしないで遂には頑固なシトーから着衣の許可をもぎ取ったという意外な一面もシメオンにとっては新鮮で、ローレンスに対する親近感を感じる要因となった。
 一方でバハククから託された大役を果たしたローレンスにも心境の変化が訪れているようだった。以前よりも眼つきが穏やかになり、バハククと各地を遍歴していた際には自らが行うとは想像もしていなかったであろう畑仕事や料理などの労働に自らの喜びを見出すようになった。
 勿論祈りや瞑想は熱心に行っていたけれども、預言者としての自らの能力を用いることはなくなり、シメオンの修行に付き添う以外の場面では滅多に秘儀を操ることがなくなった。
 また、シメオンの預言者としての能力が成長していく中で、ローレンスのシメオンへの接し方にも変化が生じているようだった。
修道院までの旅の途中、ローレンスのシメオンへの接し方は、魔物に対抗する術を持たないシメオンをローレンスが守り続けたこともあって、どこかの優しい大人が力のない赤子を保護するのに近かったのだが、シメオンの能力が成長してローレンスへと近付くにつれて、ローレンスはシメオンを仲間の一人として扱うようになっていった。
 こうして、二人はやがて親しく友情を交し合うようになり、その友情は老僧達の間で、実の兄弟のようだとも、あるいはそれ以上だとも囁かれた。

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 それから一年が流れるように過ぎ去ったある日、都の宮殿では時間に追われているかのように国王が熱心に政務を行っていた。
「セバスチャンよ。地方における住居設備建築の進捗《しんちょく》を伝えてくれい」
 執務室のデスクで紙の山に囲まれ、先程から熱心に書類を読んでは黄金で出来た巨大な判子を押し続けていた国王は、傍にある有識者や役人達を集めた様々な会議室に所用があるらしく何度も書類を抱えては執務室を行き来していたセバスチャンに作業を行いながら声を掛けた。
「只今の段階で……およそ三割の進捗でございます」
 手持ちの書類を確認したセバスチャンは素早く、そして丁重に答える。
「何っ!?たったの三割じゃと!?それでは完成次第徐々に疎開を始めたとしても間に合わんぞ!工賃をあげ、作業人員を増やしてとにかく完成を急がせるのだ!」
 驚いた国王は大声でセバスチャンに命じる。
「はっ、早速工賃の増加と新規雇用の法案を用意します!」
「よしっ!……ところで食料の備蓄は進んでおるか!」
 国王はセバスチャンの返事に大きく頷いてから更なる質疑を投げ掛けた。
「こちらも昨年の冷害の影響か、現在予定の七割程度でございます!」
「ぐぬぬぬぬぬっ、ならば悪徳商人共の買い占めた米を国家で買い上げればいいじゃろう!どうせ奴らは悪稼ぎするためにたんまり溜め込んでおるのじゃからな!」
 温厚な国王の表情には滅多に見せることのない苛立ちの表情が浮かんでいる。
「国王陛下、御言葉ですが、今の相場で食料を買い占めれば国家財政が傾きますぞ!」
「人命には変えられんわ!」
 セバスチャンの反論に国王は怒号を返した。
「……かしこまりました。それでは早速財政会議の議題にのせましょう。ところで……」
 セバスチャンは国王の少々無茶な提案を承服した後で、心配そうに言葉を濁した。
「なんじゃ?」
「政策の実行にあたって一部の民衆が混乱を起こしております。何か手を打っておいたほうが賢明かと……」
 先程から熱心に書類をめくり続ける国王の手がセバスチャンの言葉でふと止まる。
「うーむ、確かに。……今扇動者が混乱した国民を利用して叛乱を起こし、国政が乱れるようなことがあってはここまで頑張ってきた魔物による被害を減らすための政策が台無しになってしまう。何か手はあるかのう……?」
思案に耽った国王だったが、暫くすると何か思いついたように両手を叩き合わせる。
「そうじゃ。シメオン殿じゃ。シメオン殿を迎え、ルシフェルとの戦いに向けた盛大な壮行式を開けば勝利を確信した国民は団結するに違いない!」
「それは名案に御座いますな。風の噂によれば、シメオン殿は修道院で着実に救世主としての実力を育まれているとのこと。ルシフェル討伐に向けた救世主殿の修行を中断させてしまうのは気になりますが、これも人民のため!早速修道院に打診してみましょう!」
 セバスチャンも即座に同意したこの提案は、早速その日のうちに開かれた臨時会議を通過し、その日のうちに都からは修道院に向けた早馬が出された。
 だが、この時執務に熱中していた国王にも、緊急事態にあってマグダリアの執事を離れたセバスチャンにも、ここ一年の間にそれまで悪戯っぽい笑顔の絶えなかったマグダリアが時折ふと黙り込むようになって窓の外から憂鬱気にぼんやりと空を眺めたり、花瓶に活けられた花を思いつめたように手に取り、何かを念じながらその花弁を一枚一枚採り数えるように変化していたことには全く気付かなかったし、ましてや修道院に早馬が差し向けられたという噂をどこからか聞きつけたマグダリアが、乙女心に悲壮な決意を固めていたことは全く知る由もなかったのである。


     儀式

国王の通達は、暫く迷わずの森の前で待ちぼうけを喰らった伝令より修道院にもたらされた。
「ふん、こんな時期にお祭り騒ぎじゃとっ、馬鹿馬鹿しい!」
 手紙を受け取ったシトーは不機嫌そうに呟いたが、それでもその日の夜には修道院の狭く暗い一室でシトーと数人の高僧達で会議が開かれた。
「……とはいえ、各地に住居設備が建築され、倹約令が敷かれ、遠からず疎開が行われると知った国民達の間には混乱が生じ、治安が悪化して一部にはもう遅かれ早かれ魔物に人間達は滅ぼされるのだから法や秩序は最早無用と国家に反旗を翻そうとする輩が増えていると風の噂がこの修道院まで届いておりますぞ」
 老僧の一人が国王の依頼に断固拒否の姿勢を示したシトーの言葉に異を唱えた。
「民心を束ね、国家を統率するのは国政を預かる者の仕事じゃろうがっ!こんなことまで修道士頼みとは情けない!」
 シトーはこう吐き捨てる。
「まあまあ。……今の国王は名君と謳《うた》われておりますし、事態が大きくならないうちに救世主の存在を伝え、治安を守り民衆の士気を高めようとする判断は施政家として賢明」
「……それにシメオン自身、弛《たゆ》まぬ修行のおかげでミカエルを自らの意思で召喚し、その持続時間も日々成長しているとはいえ、厳しい修行の為か心身ともに疲労が蓄積している様子」
「うむ。休養も修行の一つですからの。外界に接触するのはいい気分転換にもなりましょうし、民衆の応援は修行に対する意欲を取り戻させましょう」
「幸い、ここ最近都までの道のりに魔物たちの気配はなさそうじゃしの……」
 居並ぶ老僧たちが次々に口を開く。
「……ふん。お主らがシメオンを連れて行きたいというなら勝手に行くがいい!しかし当然じゃが儂は行かんからな!」
 修道僧達の建言に、シトーは不愉快そうに沈黙を守っていたが、暫くしてから参加の許可を示す捨て台詞を吐いた。
 都での儀式へ参加する報せがシメオンにもたらされたのは、その翌日の朝食だった。
 その時シメオンの心に浮かんだのは、何よりもまずマグダリアの笑顔だった。
〈マグダリアに会える……。彼女は喜んでくれるだろうか。いや、救世主が会いに行くんだ。きっと喜んでくれるさ。ひょっとすると、あの夜みたいに、今度は何かに取り憑かれたんじゃなくて偽りのない愛情から再び夜の部屋へ誘ってくるかもしれない……って、何を考えてるんだ、しっかりしなきゃ。〉
「都に行けばセバスチャンにも会えるね。楽しみだな」
 シメオンが自らの淡い恋心と少々不純な期待を押し隠して、同道を告げられたローレンスに声を掛ける。
ローレンスはにこやかに微笑を返したが、その後どこか浮かない様子で中空を眺めた。

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 それから十日程の時を経て始まった、国王が今度は御者付きで用意した高級馬車での都への旅は順調に進んだ。
 シトーとの会議で修道僧の一人が口にした通り魔物が馬車を襲撃はしなかったし、よしんばそこらの下位悪魔達に襲撃されたとしても旅人達に擦り傷一つ与えることが出来なかったに違いない。馬車に乗り込んでいたのは、ローレンスと修行で日を追うごとに力を増すシメオンに加え、高齢による肉体的な衰えは隠しきれないものの、ローレンスに勝るとも劣らぬ能力を身につけ、会議にも参加していた二人の高僧だった。
 シメオンは厳しい修行から離れ、純粋に旅を愉しんでいるようだったが、それでもやはり都が近付くに連れ、マグダリアの姿を想像してか放心して、たまに掛ける老僧達の声に気付かないことが何度もあった。
一方でローレンスも何か思わし気に馬車の窓から外を眺めることが増えていった。
 こうして日が登らぬうちから最後の宿場を出発し、予定通り都に着いたのは早朝だった。
「皆様、お越しを御待ち申し上げておりました。国王陛下や姫君様も教会にて首を長くして御待ちでございます」
 都の入り口ではセバスチャンが出迎え、そのまま儀式の会場へと案内する。
儀式は都の外れにある豪壮な教会で行われることになっていたが、林に囲まれた閑静な教会を、告示を聞きつけて集まった夥しい数の人々が取り巻いており、シメオン達の乗る馬車が到着するや否や歓声が上がった。
 この時、既に教会内部には国王の通達で各地から集められた諸侯らが参列し、シメオンの登場を今か今かと待ち侘びており、その最前列には国王や二人の姉とともにマグダリアの姿も見受けられた。
 マグダリアは時々ぼんやりとあらぬ方向に虚ろな視線を投げかけていたが、民衆達の歓声により、修道士達の訪れを知ると、緊張したように時々そわそわと周囲を見渡し始めた。
 それから間もなくして教会の高名な演奏家による重厚なパイプオルガンの低音が鳴り響き、どこからか現れたこの教会の司祭が、広い礼拝堂の正面奥にある祭壇脇の講壇に位置を占め、その反対側に位置する国きっての名手達を集めた聖歌隊による荘厳な賛美歌が儀式の始まりを告げた。
 歌が止むと、続いて司祭が聖典の朗読を始める。鳴り響くパイプオルガン。儀式は粛々《しゅくしゅく》と進んでいった。
 この時、修道士達は教会の一室で登場の機会を待っていた。
世話役となった教会の助祭達によってシメオンには儀式で最も重要な役割である聖体変化の役目が与えられた。
 聖体変化とはパンと葡萄酒を祭壇に捧げ、祈祷の後参列者達に分け与える儀礼を指し、修養を積んだ高僧が祈りを与えたパンと葡萄酒は、神の血肉になると信じられていた。
 更に二人の老僧がシメオンの脇を固め、ローレンスが香炉《こうろ》役を勤めることが決められた。
 儀式を無事成功させなければならないという義務感から生まれる緊張、マグダリアと出会える喜び、マグダリアに見つめられる恐怖、マグダリアを見つめることの出来る恍惚、シメオンの胸中は迫り来る儀式と再開の時に狂おしく踊った。
暫くしてオルガンの音が止む。これが登場の合図だった。
 自らの僧衣を変えようとしなかったローレンスを除いて、黒衣から絢爛《けんらん》たる刺繍《ししゅう》の施された祭服に着替えを済ませた修道士達が、長い廊下の先にある講壇の傍へと繋がるドアから広い礼拝堂へ姿を現したとき、その到来に痺れを切らせていた諸侯達からは大きな歓声があがった。
 シメオンは重責のプレッシャーからか、明らかにその動作を硬くさせて祭壇へと向かい、ローレンスや老僧たちがその後ろに続いた。
 シメオンの瞳は緊張の為か俯き加減だったが、しかしながらその視線はマグダリアの姿を捜す。
 最前列に位置し、自らの王権を表すように真っ赤なガウンを身に纏う国王の隣に座る質素ながらも格調高い衣服に身を包んだ三姉妹の姿を見つけることは容易かったが、国王や二人の王女はともかく、三姉妹の中で最も小振りな衣服に身を包んだマグダリアの表情を見つめる勇気を持つことが出来なかった。
 そうこうしている内に祭壇に到達したシメオンが老僧達からパンとワインを受け取り祭壇に供えると、再びパイプオルガンの重厚な音色が響く。
 シメオンが参列者達に背を向けて祈りの言葉を唱え、ローレンスが乳香を燻した三連の鎖で繋がれた香炉を振り、香炉に繋がれた鈴の音を凛々と響かせながらゆっくりと祭壇や参列者の周りを歩く。
 眉目秀麗なローレンスの容色に、教会席後方の諸侯夫人達からは溜息が漏れる。
一方、祈りを終えると、シメオンは捧げていたパンとワインを再び手にする。
 そのパンとワインが老僧達によって切り分けられ、詮が抜かれるまでに、再び賛美歌が教会を満たす。
 その間、先程の助祭たちによって素早く参列者達に小皿と小さな杯が配られていく。
ようやく祭壇の前で参列者達を正面にとらえたシメオンは、教会が合唱に包まれる中、自身村の教会で歌ったことのある歌を口にしつつ、俯きがちだった瞳をあげ、決死の勇気を持ってマグダリアを見つめる。
 シメオンは、マグダリアを見た瞬間、その視線がぶつかるという何ともロマンチックな確信を持っていた。
 だが、後に自らが抱いていたその根拠のない幻想を思い出すたびに、何度耐え難い羞恥心や嫉妬に襲われたことだろう。シメオンの甘美な予想は次の瞬間|裏切られることとなったのである。
 マグダリアの視線はシメオンとは異なる方向を振り向いており、そして、何とその視線の先には香炉を振っているローレンスの姿があったのだ。
 マグダリアの瞳は潤み、頬は紅潮していた。
〈えっ?なんで……?〉
 一言で言い表すことはとても出来ないが、敢えて言うなれば裏切られたような感覚にシメオンは襲われた。
 やがて賛美歌が止み、間もなく助祭に促されたシメオンは、老僧達の助けを借りて、一人ずつ、ひとかけらのパンと極少量の葡萄酒を配っていく。
 その始まりとなる国王は、シメオンから葡萄酒の杯を受けながら、
「シメオン殿、立派になったのう」
 と祝福の言葉を投げ掛けたが、シメオンには何かその声が遠くから聞こえてくるように感じられた。
 次に王女達にパンと葡萄酒を分けていき、その最後にマグダリアの順番が来た時にシメオンは、今度は正面からはっきりとマグダリアの眼を見つめた。
〈さっきローレンスを見つめていたのはただの偶然かもしれない。いや、きっとそうに違いない。〉
 シメオンはそう思いたかった。
 しかし、シメオンの必死の願いは届かず、再度の試みは疑いを確信に変えるのみだった。
 マグダリアは皿と杯をシメオンに差し出していたものの、心はここにあらず、その存在にまるで気付かないかのようにシメオンとは全く異なる方向に目を泳がせており、その視線の先にはローレンスの姿があった。
 その後宮殿最上階のバルコニーから市民を集めて行われた閲覧式や、市の中心街で行われたパレードでも、その後王宮で催されたかつてない晩餐会の際も、マグダリアは傍から見て顕わなほどにローレンスを目で追い、声を掛けようか逡巡していた。
一方ローレンスは、そんなマグダリアへの対応に憂慮しているようだった。
 シメオンの確信は不信と失望へ、続いて苛立ちとぶつけようのない怒りの感情へ、最後にはそんな自らに対する自己嫌悪へと循環《ループ》を続けた。
 その翌日、早すぎる出立を惜しむ国王やセバスチャンの言葉に見送られ、シメオン達は帰途についたが、普段は事あるごとにローレンスと会話を交わすシメオンがその旅の間ローレンスに何一つ言葉を掛けようとはせず、ローレンスはそんなシメオンを、憂い気な表情で時々視線を合わせるのを恐れるかのように見つめるのだった。


     疑惑

 国威発揚の為に設けられた祝祭からおよそ一ヵ月程経った夜、国王は以前ローレンスと語り合う舞台となった、宮殿にある狭い応接室のソファに腰掛けていた。
 目の前に置かれた酒の入ったグラスから察するに、携わっている過酷な政務の消耗を癒す数少ないくつろぎの一時を味わっているようだったが、その表情は摂取したアルコールに疲労を忘れているのでも、あるいは美酒の喜びに浸っているのでもなく、暗く沈んでいた。
 ノックの音と共に、聞き慣れた声が聴こえて来たのはそのときだった。
「御呼びにお預かりしました。セバスチャンでございます」
「うむ。入ってくれ……」
 ドアが開き、セバスチャンが国王の傍らに佇む。
「呑むかね」
「お気持ちだけ頂戴させて頂きます」
「そうか。実は今来てもらったのにはわけがあっての……」
 国王は固辞されると判ってはいるものの、儀礼的に酒を勧めた後で苦々しい表情と共に本題を切り出した。
「わけとは……何でございましょう?」
 セバスチャンには何となく察しがついてはいたが、配慮から質問を聞き返した。
「ふうむ、娘のマグダリアと……ローレンス殿のことじゃ」
 国王はそう言うと片手で口ひげをつまむ。
この仕草を何か困りごとの際、国王が無意識に行うことをセバスチャンは知っていた。
「……どうやら、マグダリアがローレンス殿を好いているようでのう……」
「……祝祭の御様子から察するにそのようですな……恥ずかしながら私め、マグダリア様の執事を勤めておきながら、それまでそのことに気付きませんでした」
 悔いるセバスチャン。
「いや、セバスチャンは今儂の補佐として活躍してもらっておる。気付かなくて当然じゃ。しかし、意外じゃの……儂はてっきりシメオン殿を好いておるかと思っておったのじゃが……女心とはわからぬものじゃのう」
 子煩悩な父親の表情で国王はため息をつく。
「さようでございますな」
 感嘆深げにセバスチャンもうなづく。
「……儂はシメオン殿とマグダリアが好きあっておるのなら、無事堕天を成敗した後で修道院と交渉して、結婚を許可してもよいと考えておった。それがローレンス殿だったとしても同様。……しかし、今はいかん。物事には順序がある!」
「もっともでございます」
 セバスチャンは国王の意見に同意する。
「おかげでどうじゃ。今では教会でマグダリアがローレンス殿の注意を引くために、香炉役を務めていたローレンス殿が通りかかった際にその僧衣をわざと踏んだという些細なものから、パレードの際二人が馬車の陰に隠れて手を握っていたという噂、さては晩餐会で二人が何か互いの恋心を綴った手紙をやりとりしたという風説から、仕舞いには晩餐会の日の夜遅く、二人が密会していたたという流言までが、市井はおろか宮中までをも飛び交っておる!そして何より腹立たしいのはその一つ一つの真偽がはっきりせんということじゃ!」
 国王は不機嫌そうにテーブルを叩く。グラスに注がれた葡萄酒が揺れ、こぼれる。
「御心労お察しいたします。……それでは思い切ってマグダリア様に直接御訊きになられては?」
「もう、とっくに訊いたわい!じゃが、あのじゃじゃ馬め、全く口を割ろうとしないのじゃ!」
 国王はセバスチャンの提案を打ち切るように吐き捨てた。
「……国王陛下の御心労お察しいたします」
「儂なりに手は打ったのだが、上の娘達からもマグダリアの世話係も聞き出すことが出来なんだ。……何か打つ手がありゃせんかのう……。最近では執務にすら集中が出来ぬ……」
 途方に暮れた国王が助けを求めるとセバスチャンの目が光った。
「それでは、思い切ってローレンス様へお尋ねになられては如何でございましょう?」
「ローレンス殿じゃと!?」
 驚いた国王は思わず聞き返す。
「はい。市井や宮中でこれだけ噂が流れていれば、残念ながらその風評は既に修道院の耳に入っていましょう……。修道院としても修道士たるローレンス殿が色恋に溺れているという噂が立っていると国王陛下から通達があれば、放ってはおかれぬ筈。きっと問いただし、真実を知ることができましょう」
 セバスチャンは確信に満ちた口調で進言する。
「うむう、やむをえんのう……」
 国王は苦々しい表情で口ひげをつまみながら建言を受け入れ、翌日事態の詳細を尋ねる国王からの手紙を持った早馬が都から出発した。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

「ふんっ、だから言わんこっちゃない!」
 シトーはむしるようにあごひげを掴みながらののしる。
 セバスチャンの言うとおり、付き添った二人の老僧が半ば無意識に漏らした言葉や、各地の魔物退治から帰還した修道僧によって、マグダリアとローレンスの噂はシトーが国王直筆の手紙を読むときには既に修道院中に広まっていた。
 その日の夜ローレンスは、都での儀式参加を決めた際と同様の僧からなる会議に呼び出された。
「いえっ、そのような事実はあろう筈がございません。まったくのでたらめです!」
 シトー達の詰問に、ローレンスは憂い気な表情を浮かべながら頭を振り、自らの清廉潔白を疑われた悲しみからか、冷静なその性格には珍しく声を震わせながら答えた。
「……お主の信心深さは僧達の中でも評判となっておる。お主が色恋に溺れているなどと本気で信じている輩など、この修道院におりゃせんよ」
「……こうまで申しておるのじゃ。これ以上は詮議立てすまい」
 ローレンスの行いを知る僧達は取り乱したローレンスに同情して声を掛ける。
「ふんっ、悪評が流れるのも自らの不徳と知れい!暫くは修道院より外出禁止じゃ!」
 シトーの一喝が室内に響いた。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

 修道院から国王への返事が届いたのはそれから約一週間後のことだった。
院長から宛てられた手紙には、ローレンスが噂を全て否定したこと。ローレンスにうそ偽りがないことは、修道院長であるシトーがその保障をすること。更に、修道士たることを辞すなれば修道院としてはローレンスの交際に抗議する理由もないが、ローレンスに問いただしたところ、ストア山にて禁欲的に生涯を送る意思をはっきりと伝えられたこと、そして修道士にあってはそのような噂が流れることさえ恥ずべき事態であるので、それ相応の懲戒を与えていることが達筆で記され、最後に文面の真実を示す証拠としてシトーの拇印が押されていた。
「これは血判……!……何はともあれ、どうやらこれで疑いが晴れたのう。とはいえ修道院長殿に済まぬことをしてしもうたわい」
 国王は文面を読み、拇印のインクの正体に気付いて驚いた後で、安堵の溜息をつくと、その手紙を傍らにいるセバスチャンに渡した。
「まことでございますな」
 セバスチャンも文面を読みながら相槌《あいづち》を打つ。
「それにしても、ローレンス殿は罪なお方じゃの。……あの容色に高潔な気性。考えてみればマグダリアが惚れてしまうのも無理のないことじゃ。マグダリアが口を割らんかったのも、気位の高さゆえかのう……」
 こうして、マグダリアとローレンスを巡る一連の騒動は一応の決着を見せたわけだが、そのパートナーに国中の注目が集まっていた王女と、美しい修道士との色恋沙汰の噂は、しばらく収まりそうな気配がなかった。


     抱擁

 一方でシメオンは、儀式での出来事以来抱くようになった鬱屈した感情に依然としてさいなまれていた。
〈……マグダリアとは一度、きちんと語り合って片をつけなきゃならない。……だけど、片をつけるっていっても、何を語り合うって言うんだ……。君は修道士という立場にありながら女性の心をたぶらかしているなんて不届きじゃないかって責めればいいのか?何を言ってる。修道士でありながら下心を持っていたのは自分自身じゃないか。だったら、ローレンス、君はマグダリアに好かれているようだね。だけど、僕はマグダリアを好いているんだ。ショックだったよ、君も同情してくれるかい。まさか君はマグダリアを好いてるわけじゃないよね……とでも言うのか?馬鹿馬鹿しい!〉
 このような答えのない問いを延々と続けながらも、体裁《ていさい》の悪さからローレンスに直接マグダリアについて尋ねることも出来ず、ローレンスの清廉さが溶け出しているかのようなその佇まいを目にするたびに、自分自身が恥ずかしくなって段々とローレンスを避けるようになっていった。
 ローレンスも、以来修行で度々注意を失い、集中を乱すようになったシメオンの心情を気遣ってか、地下の図書館での文献研究などを口上として修行の付き添いを徐々に休むようになっていった。
このような二人の関係が暫く続いたある日のことである。
〈僕が年少だからって、何もローレンスへの連絡を頼まなくったっていいのにな……。〉
 老僧の一人からローレンスへの簡単な言伝を頼まれたシメオンは、こう心の中でぼやきながらローレンスの部屋の前にいた。
 その時シメオンは、その日がローレンスの嫌疑を否定した手紙が国王に届いてから数日後であるということも、その老僧がローレンスの呼ばれた修道院会議に出席していた一人であり、シメオンにローレンスへの遣いを頼んだのは、二人の関係に気を揉んだ老練な僧の優しさであるということも知らなかった。
「ローレンス、用事があるんだ。居るかい?」
 簡素な木の扉を幾度かノックして声を掛ける。
 顔を合わせたくなったので、返事がしたら用件だけを告げて、すぐに立ち去ろうと考えていたシメオンだったが、意外なことにローレンスは不在だった。
 シメオンは一瞬その場を去ろうと踏み出したが、何かを思いついたように立ち止まり、辺りを見渡して周囲に人がいないのを確認すると、粗末な扉の取っ手に手を掛けた。扉は内から閂がかかっておらず、ギイッという軋みとともに内に開いた。
 ここで、勝手に人の部屋へ入り込むような真似を、シメオンが修道院に入るまでも、当然ながら入ってからも行いはしなかったことを付け加えておかねばならないだろう。出来心という言葉だけでシメオンの行為を語ることはできまい。衝動というには十分すぎるほどの懐疑と苦悩がシメオンの表情を曇らせていた。
 シメオンは清潔な、掃除の行き届いた椅子と数冊の書籍が置かれた小さな机、修道士達が普段服入れに用いているチェストとベッドからなる簡素な部屋をキョロキョロと見渡した。何かを捜しているようだったが、何を捜しているかと訊かれればその時シメオン自身答えられなかったに違いない。ただ、何かを隠しているような、そんな予感がした。
 暫く落ち着かないようにキョロキョロと部屋を見渡すものの、どうやら怪しそうな品は発見できない。当然ながらチェストを開けて中身を調べるほどのふてぶてしさは持ち合わせていなかった。 
〈何を考えているんだっ……〉
 自分をとてつもなく恥知らずな卑しい低俗な人間に思えたシメオンは、掌で頭を叩いて押さえ込み、うなだれた。
 その時である。シメオンはうなだれた視線の先に置かれた木製のベッドと粗末なマットレスの間に紙片らしい白い影が覗いているのを目にしたのである。
 おそるおそる紙片を隙間からつまみ出す。
〈やはり封筒だ!〉
 宛名には……マグダリアよりローレンス様へと書かれている。熱に浮かされたようにシメオンは封筒から手紙を取り出し、読む。

 お慕いするローレンス様
あの日以来、あなたの姿が私の頭から離れません
今日の再会の日を誰より御待ちしておりました
夜、お迎えを遣《よこ》します
逢いにきてください
                      マグダリア

〈あの日だ……。〉
 目的の、そして考えうる最悪の結果を告げる手紙を読んだシメオンが肩を細かくわなわなと震わせながら立ち尽くすその時、再び木の軋む音が聴こえた。
シメオンが振り返ったその先に居たのはローレンスだった。
「勝手に部屋に入られては困り……」
 そう言いかけたその表情は最初驚きだったが、シメオンの持つ手紙が目に入った瞬間、怯えへと変化する。
一方でシメオンの表情は嫉妬から生まれた憎悪に狂っていた。
「勝手に部屋に入ったのは謝るよ。君が受け取った手紙を勝手に読んでしまったのも。……だけど、この手紙は何だ!?恋文じゃないか?ローレンス、人が必死で来るべき時に備えて苦しい時を送っているっていうのに、君は王女様と恋愛かい!?何より君は修道士じゃないか!」
 シメオンの口からは大雨で水位を増した川の水が、その捌け口を手に入れて一気に氾濫するようにローレンスに対する鬱積《うっせき》した感情が一気に溢れ出た。
「違うんです。それは……」
「何が違うって言うんだよ。それじゃ、何でこんな手紙を持っているんだ!」
 必死に否定するローレンスにシメオンは手紙を突き出す。
「わかりました。全てを貴方に伝えます……」
 悲しい決意を秘めた瞳でローレンスはシメオンを見つめる。
「私は都でのあの日、確かに手紙を受け取りました。しかし、夜彼女の部屋には行かず、翌日の朝、私は修道士であるから交際や結婚は出来ないし、望んでもいない。修道士として一人生涯を終える旨を伝えました。もう二度と会うこともないでしょう。その手紙を捨てられなかったのは、とはいえ手紙を燃やしてしまえば貰った気持ちまでもを灰にしてしまうようで残酷に感じたからです……。ですが、手紙も今日中に燃やしてしまいましょう」
 ローレンスが嘘をついていないことは真っ直ぐにシメオンを見つめる瞳から直感できたが、しかしシメオンは自分を抑えることが出来なかった。
「怪しいな。捨てないでとっとくんじゃないの?」
 思わず口から出た捨て台詞のような言葉に、ローレンスは悲しそうな表情をして、
「私は貴方にさえ嘘をつく人間に見えますか……?」
こう、呟いた。
「……いや、そんな……」
 ローレンスの思いつめた表情に、シメオンは言葉を詰まらせる。
「……それじゃ手紙は貴方が処分するといいでしょう!その手紙を持って出て行ってください!」
 そう叫ぶローレンスの瞳は悲しみに濡れていた。
「……ごめん……」
 いたたまれなくなったシメオンは、手紙をテーブルに置くと部屋を出て行こうと、出口に向かい扉に手を掛けた。
その時である。駆けて来たローレンスがうなじからその優美な腕をまわして後ろからシメオンを抱きしめ、
「私が悪かった。許して下さい……」
 と囁くと、シメオンがそれに応える間もなく、シメオンを突き飛ばすように元の方へと走り去った。
 扉の閉まった部屋の外で、シメオンは突然の出来事に茫然としながらローレンスの口にした『私が悪かった』という言葉の意味を考えた。それがマグダリアから恋文を受け取ったことに対してなのか、ローレンスにつれない対応をしたことに対してなのか、シメオンはわからなかった。
 ローレンスの感触を思い出したかのように背中をさする。
 そこにはローレンスの流した涙の跡が濡れていた。


     醜聞《しゅうぶん》

 ローレンスの部屋で起こった出来事から一ヶ月ほどが経過し、国中を飛び回っていた風評がようやくその収束の兆しを見せようとしていたある日のことである。
午後、宮殿の広間では雅を極めた饗宴が催されていた。
歓待の対象となったのは遠い僻地に住み、あるいは政務や私事による事情で、シメオンを招いて行われた国威発揚の儀式にどうしても参加することの出来なかった諸侯達だった。
 不参加だった諸侯には混乱を狙った謀反などの可能性も残されていたため、修道士が不在とはいえ、この招宴は国王にとって重要な政治的意味を持っていた。
国王は最悪の事態をも予想していたが、午前から始まった一連の式は滞りなく円滑に行われた。
 集まりに出席できなかったのは旅も叶わぬほど高齢の諸侯だけだったし、その諸侯も要任に就く代理が参席していた。
参加者は皆一様に恭順と協力の意を表し、国王やセバスチャンからもその瞳に嘘偽りは感じられず、怪しい談合が開かれているような気配もなかった。
 三姉妹も諸侯の接待に当たり、万事は順調に終始するかに見えた。
「救世主殿も立派になられてのう。堕天など取るに足らぬわ」
 だが、国王が諸侯の一人と談笑していたその時である。諸侯らに同席した夫人達にざわめきと軽い悲鳴の声が上がった。
驚いて国王が振り向いたその先には倒れこむマグダリアの姿があった。床には先程まで含んでいた水が吐瀉《としゃ》され、大理石の床の上で小さな水溜りを形作っていた。
 マグダリアは部屋に運び込まれ、すぐに宮中の名医が呼ばれた。二人の娘に接待を任せた国王はセバスチャンを伴って心配そうに苦しそうな愛娘を見つめる。
「これは……」
「む、娘はどうなんじゃ……」
 一通りの診療を終えた後に言葉を失った宮廷医に国王は詰め寄った。
「……国王陛下、人払いをしていただけますかな」
 医者らしく、落ち着いた声で医師は願い出る。
「うむ。お前達、しばし席を外してくれぬか」
 国王の一声でマグダリアの世話をしていた宮女達はそそくさと部屋を後にする。
それから暫くして、医師はゆっくりと口を開く。
「この症状は、……つわりですな」
 国王はその言葉を一瞬理解できなかったようだったが、はっとしたようにマグダリアを振り向く。
「まっ、まさかお前……」
 震えるその問いに、マグダリアは息を喘がせながらうなずいた。
「はい……。このお腹にいるのは、あの儀式の夜、契りを交わしたローレンス様の子供です」
「ばっ……馬鹿な……」
 思わず声を漏らした国王の表情が驚きから悲しみに、続いて怒りへと歪んでいく。
「……あのなまくら修道士め!娘をたぶらかしたな!おまけに嘘などつきおって!」
 烈火の如くいきり立った国王は部屋を出て行こうとした。
「国王陛下、どこへ行かれまする!?」
 セバスチャンが心配そうに尋ねる。
「ええい決まっておろう!儂自ら修道院に乗り込んで直接あの小僧めを締め上げてやるのじゃ!」
「国王陛下、来賓の儀はどうなさるのです?」
「ええい、そんなのは中止じゃ!」
「陛下、お気を確かになされませ。そんなことをしては、それこそ結束している諸侯にもほころびが生じましょうぞ。落ち着いて下されい!」
 血相を変えてセバスチャンは国王を止めにかかる。
「ええい、離さぬか!」
「離すわけには参りませぬ!」
 力づくでも部屋を出ようとする国王と必死にそれを止めようとするセバスチャンとの間に揉み合いが始まったが、やがてセバスチャンを振りほどこうとした国王の腕がセバスチャンに当たり、セバスチャンはしたたか尻餅をついた。
「す、すまぬ……」
 昏倒したセバスチャンの姿を見て我に返った国王は、すまなさそうに呟く。
「……いえ、これが執事の職務でございますから……」
 セバスチャンは呻きながら答えた。

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 二人の娘とセバスチャンの支援によって祝宴は無事幕を閉じた。
 マグダリアは風邪を引き、国王は表向きは急な政務、実は子煩悩に任せて娘に付きっ切りだという不在の説明がされ、それまでの噂から多くの参加者は何かを感じ取ったようだが、それをその場で口にする者は出なかった。
 その日の夜、例のこじんまりとした小部屋のソファに国王の姿があった。テーブルの上には普段とは異なり、酒瓶とグラスの他に紙が載せられ、国王の手にはペンが握られていた。
 応接室の扉からノックの音と、続いて訊きなれた執事の声が響く。
「うむ。セバスチャンか。入ってくれ」
「かしこまりました」
 国王の声に応えて部屋に入っていったセバスチャンの目には、いつもより明らかに酔った書記を行う国王の姿と、今日開けられたようだが既に半分ほどまでに減っている蒸留酒《スピリッツ》のボトルが置かれていた。
「お体に障《さわ》りますぞ」
 滅多に国王の酒癖に口を出すことのないセバスチャンだったが、心配から声を掛ける。
「少々呑みすぎたか。……じゃが、そうでもなければこんな文などとても書けんわ」
 そう言うと、国王は筆を置き、中空を見つめてグラスを手に取った。
「……セバスチャンよ、儂の妻を覚えておるかな?」
「国王妃殿下でございますな。勿論でございます」
 セバスチャンは答える。
「うむ、あやつがな……。マグダリアを出産したのが祟って亡くなる直前に、儂に言ったのじゃ。『この子は私が命を賭けて産んだ子供です。大事に育ててください』とな。儂は勿論大事に育てる。立派に育てて最高の夫を探し、幸せな人生を送らせる。そう約束したんじゃ。それを、それをな……」
 国王の声が憎悪に震えていく。
「マグダリアに傷をつけおって!儂が妻と交わした誓いを破らせおって!」
 そう言うと、国王は憤怒へとその表情を変え、持っていたグラスを一気にあおると再びペンを手に取る。
 セバスチャンも掛けていい言葉が見当たらず、ただただ一心不乱に机に向かう国王の姿を見守るよりなかった。
「……よし、出来た。これを修道院に届けてくれい」
 そう言って国王がセバスチャンに手渡した修道院への委細を訴える手紙は、その酩酊《めいてい》と怨恨《おんこん》からか、おどろおどろしさに満ち溢れていた。


     追放

「なっ、何じゃと?……何ということじゃ。……バハクク、すまなんだ。儂の不行き届きじゃった……」
 国王から送られた怨嗟《えんさ》の手紙を受け取ったシトーの口から、滅多に吐くことのない弱音と、一足先に世を去った友への謝罪が嘆息とが共に漏れた。
 そして、その日の内にローレンスはシトーと老僧達が急遽開いた会合に呼び出された。
「国王から手紙が来た。読むがよい」
 そう言うと、シトーはローレンスに手紙を手渡す。
 驚いて文面を読んだローレンスの表情が次第にこわばっていく。
「第三王女であるマグダリアが懐妊し、国王に対しておぬし等が儀式の夜、男女の契りを交わし、腹の子は、ローレンス、お主の子だと白状したようじゃ。……間違いないな?」
 シトーの問いの後、しばし一室を沈黙が支配した。
「……はい、間違いありません……」
 ローレンスのくぐもった掠《かす》れ声に、老僧達がざわつく。
「ふん、ならば何故あの時に言わなんだ。あの時正直に語っておればもう少しましな結果になっていたものを……。……儂の顔がつぶれたのはともかく、虚言に踊らされた国王の怒りは収まりそうもないわ」
「……」
 シトーの言葉に応えることなく、ローレンスは沈黙を守っていた。
「……それはもうよいとして、読んだとおり怒り心頭に達した国王の文面によれば、お主に対して相応の報復を用意しているとのこと。下界に降りればまともな暮らしは送れまい。……じゃが、お主は色欲の戒を破った」
 しゃがれたシトーの声が一段と低まった。
「……覚悟はしております」
「まさか……ローレンスに限ってそのようなことが……」
「何ということじゃ。……これほどの清廉な修道士など他におらんというのに……」
 居並ぶ老僧達からはローレンスへの同情の声があがったが、禁を破った僧をこれ以上修道院に置いておくのは神の栄光の為に修道院が頑なに守り続けてきた掟にも関わる事である。シトーの決断に異論を唱えるに至らなかった。
「ローレンス、お主を破門とする」
 老僧達の声が止んだ静寂の中で、シトーの声が響いた。

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 瞬く間に修道院中を駆け巡ったこの事件に、誰よりも驚き、そして傷ついたのはシメオンだった。あの一室での出来事以来、シメオンはローレンスを疑い、マグダリアのことで嫉妬していた自らを羞じ、明らかに以前よりはぎこちなかったが、それでも自然とローレンスに接するよう自らを戒めていた。
 ようやく二人の関係に信頼が取り戻されようとしていたまさにその時に、マグダリアが懐妊し、ローレンスが儀式の日の夜に密会を行い子供を孕ませたことを認め、破門となったのである。
〈マグダリアが妊娠して僕は悔しいのか?いや、もうそんな感情はとっくに捨てた。なら、ローレンスと離れ離れになるのが悲しいか?いや、そうじゃない。僕が今感じているのは強烈な怒り。……信頼を欺かれた、強烈な怒りの感情だ!……僕は、裏切られた!〉
 一人心の中で怒号を叫んだシメオンは、周囲のざわめきからローレンスが修道院を去ろうとしていることを察知すると、暮れ行く戸外へと飛び出し、ローレンスが寒風のなか、見送りもなく一人礼拝堂の扉を出て修道院を後にしようとするその前に立ちはだかり、
「このっ……嘘つきがーっ!」
 と叫んでローレンスを殴った。シメオンにとって、誰かに手をかけるのはこれが最初だった。
 ローレンスはその拳を甘んじて受け、倒れたが、やがて起き上がると悲しげな瞳でシメオンを見つめる。
 涙に潤んだその瞳に、怒りに我を忘れていたシメオンも成す術がわからず、その後ゆっくりと振り向いて、徐々に山下へと消えていくローレンスの侘しそうな後姿を、ただただ見送ることしか出来なかった。
 その時修道院の居室の窓からローレンスの下山を目にした修道士達によれば、その時悲しい後姿が進む方角に、おりからあおられた風に揺らぐ沈み行く夕日が輝き、その優しい姿はさながら天の焔に融けていく様だったという。

     浮浪

 国王が修道院を追われたローレンスに行った仕打ちは穏やかな国王とは思えないほどに過酷だった。儀式の晩餐などに同席し、ローレンスの顔を知る宮廷画家に似顔絵を描かせ、それを版画と活版で印刷し、国中に配布した。
 似顔絵の下には、ローレンスなるこの人物は修道士でありながら戒を破り、あろうことか国王の娘に不埒《ふらち》な行為を働いた上に、その真偽を確かめるにあたって虚偽を述べた背徳の輩であるので、職や宿を与えることはおろか、食料を施したり、語りかけることすら禁止するという徹底的な通達が記されていた。同時にローレンスの都への出入りも禁じられた。
 残酷な命令が発布されるまで、セバスチャンが必死に国王の行為を止めようとしたが、果たせなかった。
 かくしてローレンスは憐れな乞食となった。物乞い達と共に村から村の廃屋を転々とし、外に出れば皆に蔑まれ、通達を読んで憤った人々からは石が投げられた。
ちなみに、色欲の沙汰を破ったことで自らの力を失ったのであろうか、その際投石をする人々を追い払うためにも、あるいは何らかの自らの利益の為にも、ローレンスが一切その秘儀を用いないばかりか、それを行おうとする素振りさえしなかったことをここに付け加えておかねばなるまい。
 物乞いたちから分け与えられる僅かな食事による飢えと風雨の衰弱か熱病で死の淵を彷徨ったことさえある。だが、神の御加護だろうか、ローレンスは命を取り留めた。
 一方ローレンスは日々の祈りを忘れることなく、近くに教会があればそこに詣で、時に神父に出入りを差し止められても教会の前で熱心に祈祷を行っていた。その行を知った村人達の中には、修道士を破門となったとはいえ、その信心までは失われていないと憐れみをかける人もいたが、ローレンスの哀れな境遇を変えるには至らなかった。

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 こうしてローレンスが浮浪の生活を送るようになって半年ほどが過ぎた時、マグダリアは子供を出産した。
 この時マグダリアは都の教会の、部外者は一切踏み入れぬ閑静な部屋に寝起きし、人気のない時間帯に庭を散歩する以外は一切の外出禁止が行われていた。
 それは、マグダリアにも腹を立て、これ以上宮殿に置いておくわけにはいかないとの国王の厳しい措置だった。
 が、それでも生まれてくる孫に罪などないと、マグダリアには優秀な産婦を付け、教会には子供の為に医者を常駐させた。
 そして子供が生まれると既に疎開が徐々に始まって忙しさを増す政務の合間を抜け出して、夜中たびたび娘のもとへ忍び訪れ、子供をあやしていた。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

 シメオンは夜の帳の中にいた。
 月の光と消えかかった焚き火だけが辺りを照らす闇に複数の影がうごめき、山中を飛び回る。
 漆黒の修道服に身を包んだシメオンもまた、闇の一部となり、林を翔ける。
「生命の樹《セフィロト》より放つ天界の炎、邪を裁く!」
その掌からは詠唱と共に炎や光線が飛び出し、その度に人外の呻き声が上がる。
「こいつで最後だっ!倒れろっ!」
 シメオンは叫ぶと一際巨大な火炎を闇に向かって発射する。
その先にはシメオンに突進してくる身の丈数倍はあろうかという毛で覆われた体躯に野獣の面貌をした怪物の姿があった。
 火の玉は怪物に命中し、失速したその姿は焔に包まれ周囲を照らす。地面には夥しい異形の魔物たちの亡骸が転がっていた。
「やった!」
 手応えを感じたシメオンは得意げに拳を握りしめたが、しかし、その表情はすぐに驚愕へと変貌する。
 渾身の力を込めて放った火の玉は怪物の体毛と分厚い表皮を焦がすのみで燃やし尽くすには至らず、怪物が焼け焦げたおぞましい姿で突進を続けてきたのである。
「……くっ、天界より出でよミカエル、邪を滅ぼせ!」
 追い詰められたシメオンは召喚の詠唱を行ったが、その声は虚しく夜の闇に響くだけだった。
〈ちっ、ちくしょうっ!何で出てきてくれないんだ!〉
 もはや眼前へと迫った怪物が手にしていた巨大な棍棒を振り上げた。
〈やっ、やられる!〉
 シメオンが自らの死を覚悟したその時である。頂上を確認できないほどに巨大な岩石が地面を振るわせる轟音と共に頭上から落ち、怪物を押し潰した。
 岩石が落ちて来た頭上を仰ぐと、それは大木の数倍はあろうかという巨大な人型の形をした土と岩石からなる物体の足部だった。
「未熟な!儂がいなければお主、死んでおったぞ!」
 シトーの叱りの声が聴こえる。
 シトーとシメオンは秘儀の特訓の為、もうかれこれ魔物の気配のする地域を転々としていた。だが、訓練といっても、シメオンの経験の為、数十年ぶりに重い腰を上げたシトーが魔物との戦いに慣れないシメオンを援護し指導するくらいで、その点意外は完全な実戦だった。
 実際しばしば魔物たちとの戦いでシトーは敢えて手を出さず、シメオンを窮地に追い込むことで、シメオンの持つ潜在能力《ポテンシャル》を引き出そうとしていた。
「魂が抜ける。土は土へ、石は石へと還る……」
 怪物を踏み潰した後に巨大な物体は轟音を響かせて二人のいる場所から離れていったが、シトーがこう唱えると、凄まじい音とともに瓦解し、もとの岩石と土塊となった。
 再び静寂に包まれた山中でシメオンはうずくまり、頭を抱えていた。
〈どうして出てきてくれないんだ……。〉
 一連の事件の後、シメオンはミカエルを召喚することが出来なくなっていたのだ。
〈いや、最初の時だって実戦でうまくいったんだ。実戦を積めば必ず召喚できるようになる。〉
「終わったようじゃの」
 シトーがシメオンに戦いの終焉を宣言した瞬間、
「はい!……次の魔物はどこですか?」
 戦いが終わったばかりのシメオンは、魔物との戦いで生死を潜り抜けた集中の為に興奮し、血走った目でシトーを見据えた。
 ローレンスが破門となってからのシメオンは何かに取り憑かれたかのように修行に夢中になった。しかし、ミカエルを召喚することはどうしても出来ず、その修練の様子には、強風で壊れる直前の風車が凄まじい勢いで回転しているような、そんな危うさが感じられた。
「ふん、今戦ったばかりだというのに、何が『次の魔物』じゃ、たわけ!……それより、ここからなら都に数日。ルシフェルに対する策を伝えねばならん。……それに、儂はローレンスのことで国王に侘びを入れればな。都へ向かうぞ!」
 シトーはシメオンの要求に近い問いに応じなかった。
「……えっ?都?」
 シメオンは驚きと躊躇の声を漏らす。
「そうじゃ、都じゃ!はよ準備をせい!」
「…はっ、はいっ!」
 シトーの怒号に、シメオンは反射的に返事をしてしまった。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

 それから二日ほどたった太陽が空高く登る時、修道服に包まれた二人は宮殿に到着した。シメオンが通ってきた都の通りは、やはり疎開のせいだろうか以前よりも活気がなく、建物にも空き家が目立っていた。
「シメオン様に、これはシトー様っ!よくぞいらっしゃいました」
「セバスチャン殿も息災そうで何よりじゃ……」
 シトーとシメオンがやって来たと聞いて駆けつけたセバスチャンに案内され、二人は広い応接間に向かう。
「おお、修道院長殿、遠路はるばるよくぞいらっしゃった。勿論シメオン殿も。まずは座ってくだされい。……いやあ、修道院長殿との再会は先の大戦以来ですかのう。来られるなら来られると手紙を頂ければこちらより出迎えたものを。……いや、しかし手紙で書いた内容に間違いがあっては困りますからなあ……」
 二人を迎え、ソファへと案内し、自らも対面する長椅子に座った国王の言葉には、歓迎の意と共に、シトーに対する毒が含まれていた。
「たまたま近くに寄ったもんでの……。とはいえ、ここへは一度訪れねばならぬと考えておった。話さなければならぬ事があっての」
 腰を下ろしたシトーはそう国王に応えると、一呼吸おいて続けた。
「まず、ローレンスの件で儂の書いた手紙のことじゃ。結果としてお主を欺くことになってしまった。すまなかった。いかなる制裁をも受けよう」
 こう言うと、シトーは深々と頭を垂れる。
 シメオンは、想像さえ出来なかったシトーの姿に驚いた。
 これは、ローレンスという言葉に一瞬穏和な表情を歪ませた国王にも言えて、慌ててシトーの肩を抱き起こすと、
「いやいや、そのお言葉さえあれば十分。頭を下げることもありませんぞ。その事はもう忘れてくだされ」
 とシトーを庇《かば》った。
「うむ、かたじけない。じゃが……」
 再びシトーの眼にいつもの厳しさが宿る。
「あれはちとやりすぎと違うかのう……」
 『あれ』がシトーとの旅の途中や、宮殿までの都の街中で見られたローレンスについての張り紙をさしていることは、国王だけでなくシメオンやソファの傍らに佇むセバスチャンにも明らかだった。
暫くして国王が口ひげを引っ張りながら重い口を開く。
「……うむ、今度はこちらが謝らなければならんようじゃのう。あの時はどうにも腹に据えかねておってな。あれから暫くして回収を命じたのじゃが、一度広まってしまってはのう……。娘の純潔を奪って孕《はら》ませ、おまけに嘘までついたとはいえ、生まれた孫の父親じゃ。すまぬことをした。セバスチャンの助言に耳を傾けるべきじゃった……」
 セバスチャンが沈痛な面持ちで見守る中、今度は国王が頭を下げた。
「……こうなってしまっては、後は神の御慈悲に任せるよりあるまい……」
賢者バハククの愛弟子と、国王の愛娘が置かれている不幸な事態に、流石のシトーも呻るように溜息をついたが、やがて、
「……今日ここに来たもう一つの理由はルシフェルへの対応策じゃ。修道院の総力を持ってしてもルシフェルの居場所を掴むことは出来ん。だが、一つだけいえることがある。それは、堕天が間違いなく、何よりもこの小僧を狙ってくるということじゃ」
 と沈黙を破ると、隣に座るシメオンを振り向いた。
「……うむっ!その通りに違いない」
 その言葉に俯いていた国王も頭を上げ、肯く。
「よって、小僧を修道院に配して総力を結集し、先の大戦と同じくストア山を決戦の場とする!決戦に備えて各地を巡回している修道士達も必要最小限を残して修道院に帰し、ルシフェルの傷が癒えるに従って魔物たちも勢いづくため、結果として都も少なからぬ損害を受けるじゃろうが、背に腹は変えられん……わかってくれい」
 シトーの言葉には強い覚悟が秘められていた。
「勿論じゃ!被害を抑える為、既に疎開を進めておるわい。安心して堕天との戦いに集中してくだされ!」
 それでも国王は皆の士気を高めようと、言葉を終えると、無理をしていることは明らかだったが、それでも娘と孫に関する心痛を抑えていつもの哄笑《こうしょう》を付け加えた。

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 会談を終えるや否や直ちに宮殿を後にしようとしたシトーを国王が強引に引き留め、その後厳格で知られる修道院長の為に用意されたパンと野菜スープに少量の葡萄酒のみという質素な晩餐の後、シトーが自ら国王に面会を求めた。
セバスチャンから伝えられた予期せぬ面会の申し出に国王は驚いたが、すぐに修道院長を慮り、自らシメオンとは別に用意されたシトーの部屋へと赴く。
「わざわざ済まぬな……」
 ベッドに腰を掛けていたシトーは、部屋に入ってきた国王に近くにある椅子を勧めた。
「いやいや、礼には及びませんぞ。……して、用件とは?」
 椅子に座りながら国王は尋ねた。
「ふむ、シメオンのことじゃ……先程までは本人が目の前だったので口にしなかったのじゃが、……あやつはローレンスが破門となった一連の出来事の後、ミカエルを呼び出すことが出来なくなった」
 顎ひげをさすりながらシトーは打ち明ける。
「何ですとっ!?」
 とんでもない告白に、国王は大声を上げる。
「誰よりシメオンが自分自身に苛立っておるでな……黙っておったのじゃ」
「……うむぅ」
 国王は返す言葉もなく、ただ呻るよりなかった。
「預言者の使う力は集中の為の詠唱を伴う場合が多いが本質は神との内的対話。一連の事件で心を乱した今のシメオンの声は完全には天に通じておらぬ」
 シトーは憂慮にその表情を曇らせ、
「……小僧も、原罪を免れえなかったのやも知れぬ……」
 と嘆息した。
「……何か解決する方法がありませんかのう……?」
「今ローレンスを修道院に呼び戻したとしても結果は変わらんだろうことは火を見るよりも明らかじゃ……。だが、何か心の変化となる契機があれば、あるいは……。」
国王の問いに、シトーは沈んだ表情で答える。
 部屋を暗い沈黙が支配していたが、やがて、
「シトー殿、儂に考えがありますぞ……」
考え込んでいた国王が一計を案じた。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

 シメオンは宮殿に用意された部屋でやる瀬ない気持ちに苛まれていた。
〈こんな所にいる場合じゃないってのに……。残された時間だって少ないし……。でも、どうしたらいいかわからない。どれだけ頑張っても召喚出来ない。どうすりゃいいんだ。〉
 その時である。部屋のドアがノックされ、もう大分聞き慣れて来たセバスチャンの声に扉を開けると、
「国王様が是非とも散策にお付き合い頂きたいとのことでございます」
 とシメオンは外出の誘いを告げられた。
「えっ?でも……」
 晩餐の際、マグダリアの姿が会食の席にないばかりか一切そのことについて触れられず、夕食の後、部屋に戻る途中になってようやくセバスチャンから宮殿に住まっていないことを知らされていたシメオンは、そのことと国王の誘いに関連があるという直感がして戸惑ったが、セバスチャンの、
「既にシトー様より外出許可を頂いております」
 という言葉と、彼にしては珍しい押しの強さで半ば強引に部屋から連れ出され、数分後には宮殿の裏口からセバスチャンに手を振られ、国王と二人目立たぬ馬車に揺られていた。
「行く先は察しがついていると思うがの……」
 国王は済まなさそうにシメオンに呟いた。
「何故そんな場所に僕を連れて行くのですか?」
 シメオンは、国王に対して無礼とわかっていながらも不満を口にする。
「……うむ……、もともとはそんな失礼なことをしようとは考えてもおらんかったが、シトー殿から、シメオン殿が天使ミカエルを召喚することが出来なくなってしまったことを聞いてな」
「だからって、それが国王様が僕をマグダリアの所へ連れて行くのとどういう関係があるって言うんですか!?」
 自分が今一番気にしていることを口にされたシメオンは思わず語気を荒げた。
「あの二人があのような結果になったのは不幸としか言いようがない。儂も愚かな事をした。そして、その不幸がシメオン殿の心を乱し、新たな不幸を生んでおる。このままでは人の世は滅ぶやもしれん……」
 そう語る沈痛な国王の面持ちにシメオンも言葉を失った。国王は続ける。
「この不幸の連鎖を断ち切るためには何か勇気ある一歩を踏み出さなければならん。マグダリアと、そして二人の子供と会ってみてくれい!それが解決になるとは思えんが、何かの契機にはなるはずじゃ」
「……わかりました」
 それから間もなくして馬車は教会に到着した。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

 教会を訪れる市民にはその存在すら知られていない小さな出入り口から暫く進んだ部屋のベッドにマグダリアは横たわっていた。
 マグダリアは予想していなかったシメオンの入室に一瞬驚いたようだったが、その後少し困ったような微笑の表情で咳をしながら会釈し、シメオンを迎える。
 以前訪れた宮殿の広い寝室と、教会の小奇麗だががらんとした装飾も何もない一室との相違、そして以前の寝室の絹に覆われた天蓋付きの広く高いベッドと、それまで教会で用いられていたのをそのまま使っているらしい古い粗末なベッドの違い、続いてそこに横たわるマグダリアの痩せこけた表情がシメオンを愕然とさせた。
 マグダリアの傍には柵の付いた木製のベビーベッドが設置してあり、そこにはローレンスとマグダリアの、まだ首もすわっていない乳のみ子が静かな吐息を立てて眠っている。
 いかにも高級そうな、部屋で唯一高級感を漂わせているベビーベッドが室内に奇妙なコントラストを与えている。
「数人の女中と専門の医者を配し身の回りの世話を頼んでおる。産後の日経ちが思わしくなくてのう……。医者によれば、命には関わらんが安静が必要とのことじゃ。教会に移しているのは当然戒めの為もあるが、娘を宮中に置いておけば何かと悪い噂も耳に入るじゃろうし、孫も親の側に居るのが一番じゃて……」
 国王は顔をしかめたシメオンに気付いて、説明する。
「……マグダリアを祝福してほしい、労わってほしい等とは申さん。ただ、生まれてきた子供は無実じゃし、儂にとってはやはり愛くるしい孫なのじゃ……」
 言葉を詰まらせた国王に何かを感じたシメオンは、ゆっくりとベビーベッドに近付く。
〈その通りだ……子供に罪なんてあるわけがない。ほら、こんなあどけない表情で眠ってる。この子を守るためにも頑張らなきゃ……。だけど、だけど僕は何なんだ。その為に命を賭けろって言うのか?いっそ、今の状態のままで倒されてしまうか。このまま生きていたってこれ以上不幸になってもこれ以上幸せになんてなれやしない。……いやっ!一体何を考えているんだ、僕は!〉
 健やかに眠るローレンスとマグダリアの子供を優しく愛でながら、シメオンの思いは千々《ちぢ》に乱れた。

     襲来

 宮殿への訪問から半年ほど過ぎ去った大粒の雨が窓を叩く、ある日の夜だった。
「おおっ!」
 シメオンとローレンスが修道院へ訪れた最初の日にでシトーが紹介した地下要塞《カタコンベ》から滅多にない驚愕の声が漏れた。
 環となって座禅を組み、熱心に詠唱を続けていた黒衣の修道士の一人が素早く立ち上がり、よほど急いでいるためか、普段なら丁寧に開け閉めするドアを荒々しく開閉し、聖堂へと続く階段を駆け上がる。
 修道士の走りついた先は修道院長の居室だった。
「失礼ながら!」
 こう叫びながら荒々しくドアを叩く。
ドアに閂は掛かっておらず、荒々しく叩いたその反動でドアは開いた。
「うむっ、入れ!」
 寝台で横臥《おうが》していたシトーは閉じていた眼を素早く見開き、サイドボードの消えていた蝋燭に指先から放つ焔で火を灯し、寝台より脚を下ろして座した。
「地下要塞《カタコンベ》にて巨大な勢力を感知!ルシフェルの気は読み取れませんが、時期と照らし合わせて堕天が率いる軍勢と思われます!」
 部屋に駆け込んだ修道士は咳き込むように報告する。
「くっ!とうとう来よったか!……小僧があの調子だというのにっ!……して、軍勢がアトス山へ到達するまで残された時間は!」
 シトーは口角泡を飛ばす。
「いえっ、それが……」
「悠長にしておる暇などないのじゃ!」
 口ごもる修道士をシトーは急かした。
「……申し上げにくいのですが、軍勢が向かう先はここにあらず、宮殿の位置する都なのです!この速さでは明日の日没には都が襲われます!」
「なっ、何じゃと!」
 シトーですら予期せぬ魔物の進路に狼狽を禁じえなかった。
「……首都が襲われれば被害は甚大!僧達の親族も多数居住しております。預言者の秘儀があれば一昼夜で都へ到着できます。都へ戦いの場を移してみては!?」
 修道士の声は熱を帯びている。
「落ち着くのじゃっ!都の住民はその殆どが疎開を終えておる。それにシメオンがミカエルを召喚出来ぬ今、結界や防御の整っておる修道院での戦いですら勝機がないというのに都での戦いなぞ、百戦錬磨の僧達と言えどすぐに滅ぼされてしまうわ!儂らが死ねば人が皆滅んでしまうのじゃ!大義を見失うな!」
「……は、はっ!」
 シトーの叱咤で修道士は正気を取り戻したように肯いた。
「それから……」
 ふと窓の外に目をやりながらシトーは呟く。
「……今回の件は暫く極秘にしておけ。シメオンの耳に届くと厄介になりそうじゃからの……」
「承知しました」
 こう首肯《しゅこう》して修道士は部屋を後にした。
 この時、普段から人気のない修道院室のドアが僅かに開いていることを修道士は気にしなかったし、シメオンが自らの抑えようのないわだかまった気持ちを抑えるため、夜な夜な散策を繰り返していることも、そして雨降りの日にはその散歩の地が修道院の廊下となることも二人は知らなかった。増してや、その日の夜散策の通り道に修道院長の部屋の前の通路を選んだシメオンが偶然シトー達の会話を聞き及んでいようなどとは、その時思いもよらなかったのである。
 次の日、シトーの指導を以って静謐《せいひつ》な地下の小部屋で行われることになっていた瞑想にシメオンが姿を現さなかったときになってようやく、シトーは異変に気付いた。
シメオンの部屋へと急ぎ、ドアを開ける。
 ガランとした部屋には修道服の黒衣がベッドに投げ出され、乱暴に引き出された修道院へ到着するまで着ていた旅装束が収まっていたチェストは殻となり、窓が開け放たれ雨の止んだ空にカーテンが舞っていた。
「愚かな……」
 シトーは呟いた。
 一方その時、シメオンは暁光が差す光の中を、疾風の如く駆けていた。
〈僕は多分、今夜殺されるだろう。……それじゃ何の為に走っているんだ?殺されるために走っているのか?いや、そうじゃない。僕は僕であるために走っているんだ!〉

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

 沈み行く太陽を背に、都へと到着したシメオンを待っていたのは、燃えさかる街だった。
「くっ、遅かったか……」
 シメオンはうろたえてはいたが、一人でも沢山の住民を救おうと住民達を襲う異形の悪魔を自らの秘儀で薙ぎ倒しながら、ある方向へと駆けていく。
 延長線上には宮殿と、更にその先には教会が位置していた。
 その道の途中で、住民達が怪物の襲来を怖れながらも街の中心を目指していることに気付いたシメオンは、素早く背の高い民家の屋根に飛び宮殿を遠く目にする。
 すると、普段来訪者がいなければ閉鎖されている筈の城門《きど》が開放され、住民達が列を成して押し寄せており、城壁の上には悪魔用の半透明の結界が半円状に巡らされていた。
 シメオンは屋根づたいに宮殿へ近付き、城壁の側まで辿り着くと、一跳びで城壁の遥か高くへ飛び上がり、そこから浮遊して結界へ左手手を触れる。すると、頑丈な金属のような感触が伝わってくる。
「聖なる防壁よ、我を認証せよ」
 しかしシメオンがこう呟いた次の瞬間、六芒星十字と玉石が煌めき迷わずの森でシメオンが大樹へと吸い込まれていったようにシメオンは半透明の結界の内側へと透過していった。
 城壁の内側でごった返していた住民達は、空から登場した謎の存在に一瞬悲鳴を叫びかけたが、それが救世主の姿だと知るとその悲鳴は一転して歓喜の声に変わった。
中庭の中心には祭壇が設置され、三人の修道僧が三極構造《トライアングル》に座して結界の祈りを唱えていた。その中央では玉石が輝き、生命の樹《セフィロト》を形成している。
「シメオンめ、独断で来よったな」
「今修道院へ勢力を結集させ、僧を常駐させているのはここ都だけ。よって守っているのは儂らだけじゃし、この結界もいずれ破られる。ミカエルを召喚出来ぬシメオンが来たとて無駄なことじゃし、何より意味がなかろう……」
「……じゃが、マグダリア姫が子を授かったのも、ローレンスが破門となったのも、全て神の思し召しじゃ。シメオンがミカエルを召喚できなくなった挙句、ここに来たのもな」
「……神の御心かのう……」
「……やもしれぬ……」
 シメオンの気配を察知して括目《かつもく》した僧達は語り合うと目を閉じ、詠唱を再開した。
 国王は、以前シメオンがローレンスやマグダリアと民衆達へ閲覧式を行ったテラスから両手を大きく振っていた。
それを目にしたシメオンの脳裏には、マグダリアがシメオンの存在を忘れているかのようにローレンスだけを見つめていたあの日の光景がよぎり、シメオンは一瞬眩暈《めまい》を起こしかけたが、人々へ不安を与えないよう体勢を整え、国王のもとへ降り立つ。
「……マグダリアを助けてくれい!上の娘達はもう疎開させておるが、マグダリアは具合が悪いままで今も教会から動かせんのじゃ!今、セバスチャンを向かわせておる!儂もすぐに行く!頼む……」
 シメオンが到着するや否や、国王は人々を勇気付けるために作り続けていた余裕の表情を娘を思う悲嘆へ変え、シメオンへ懇願した。
 シメオンは無言で肯き、テラスより教会の方角へと飛び立つ。
空中から見えた教会が位置する森は、あちらこちらに火の手が上がっており、一目では教会が無事かどうかすら判別できない。
 行く手を塞ぐ魔物達を弾き飛ばし、風のように森を駆け抜け、シメオンは走った。
こうしてシメオンが教会に辿り着いたのは、太陽が地平線の下へ完全に沈没しようとした、まさにその間際だった。
 轟々と音を立て、火に包まれて周囲に火の粉をばら撒く教会の側で、セバスチャンがマグダリアの両腕を必死で抱えていた。
シメオンが駆け寄ると、セバスチャンは、修道院で日々を過ごしている筈の救世主の登場に一瞬驚いたが、すぐに、
「マグダリア様は騒然とした外の様子を確かめようと、病気がちな体調を無理して外を調べに出て行かれたようです。その帰りに火事が……」
 執事の束縛を振り払おうとして、かいなを振り回すマグダリアの振る舞いを御《ぎょ》しながら応えた。
「それじゃ、赤ん坊は……」
 その時、マグダリアはシメオンの到着を感づこうとする徴《しるし》もなく、半狂乱になりながら自らの子供の名前を叫んでいた。
〈僕が行くしかないっ!〉
 シメオンが決意したその瞬間である。
「私が行くっ!」
 彼等の背後から、聞き覚えのある声が聴こえた。
ちょうどこの時、燃え行く教会に閉じ込められ自らの生命の終わりを悟ったのか、それとも奏者と声楽家の生命を超えた芸術への傾倒だろうか、火に包まれた教会から美しいパイプオルガンの音色と賛美歌が響き渡った。


     救出

 シメオンがたじろぎながら振り向いたその先には、やはり他ならぬローレンスの姿があった。
 その白き僧衣は朽ち、燃える建物の炎に照らされたその瞳は赤色に輝き、痩せ衰えたその頬はこけ、髪は乱れているが、その美しい整った顔貌はローレンスに違いなかった。
 だが、シメオンがローレンスの美しい姿を目にしたのはほんの一瞬で、その姿は、瞬く間に火柱立ち上る教会の建物へと吸い込まれていった。
 この時、シメオンの後を追って都へと辿り着いたシトーら修道僧達が、シメオンの気配を追って教会へと辿り着いていた。
「流石に破戒の徒も我が子が可愛いと見える。勇んで火に飛び込みよった」
 偏屈で知られた老僧が蔑《さげす》むように言葉を発した。
「……うむ、じゃが……不義あらば、預言者の力は例外なく神の裁きで失われた。今まで例外などない。じゃが、火に飛び込んだローレンスを見たか!あ奴の身体を天上の衣が覆い、皮膚を焦がす火の粉と骨をも焼き尽くす熱よりローレンスを守護しておった!」
 それを隣で聞いていた僧は、偏屈で知られる老僧の辛辣《しんらつ》な皮肉に対して同意しながらも、目の前で起こった出来事に驚きを禁じえなかった。
「……我が子を想う父への、神の御心かのう……」
 シトーは呟いた。
「……神よ、救いたまえ、神よ、救いたまえ……」
 一方でマグダリアは痩せこけたローレンスが一人焔立つ教会へと立ち行くその後姿を目にしてからというもの、地にうずくまり、両手を組み合わせて天に掲げ、声にならない祈りを捧げ始めた。
燃えさかる火の粉がその美しい髪や衣服を焦がし、燻された灰がその身体を襲ったが、マグダリアは身じろぎすらしようとせず、祈りを続けた。
涙が乾いた地面を湿らせていた。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

〈間に合ってくれ!〉
 小さな生命の気配を追いながらローレンスは部屋のドアを開ける。
マグダリアの居室は既に熱気に包まれ、上方は煙で覆われ、壁の一部は既に燃え盛っていたが、ベビーベッドが部屋の中央付近に設置されていた幸運であろう、部屋の中心より苦しそうな赤ん坊の泣き声が聴こえた。
その声より、ローレンスが赤子の位置を把握し、ベビーベッドに目をやった瞬間、その視界には、あの日宮殿でシメオンを襲った巨大な蝿の姿が赤子の傍で佇立《ちょりつ》していた。
「バアルゼブブ!」
 ローレンスは素早く身構え、周囲に注意を配る。だが、その姿はあの日の美しいしなやかな姿と比べると、余りに痛々しかった。
「おぬしが来るとは……。小僧が来ると読んでいたが……。これは意外や意外……。まあ、よい。……ああ、魔法陣は張っておらんよ。今の小僧なら魔法陣ぐらい気付くじゃろうと思ってな……」
 羽音を唸らせ声ならぬ声を発し、触覚をピクピクと動かしながら、バアルゼブブはその細長い手足で赤子の額に触れた。
「赤子に手を出すな!」
 ローレンスは叫ぶ。
「手を出すな?……知っておるか?儂は、実戦の方はからっきしでのう……。生身の小僧も直ぐには殺せなかったほどじゃが、赤子となるとわから……」
「貫けっ!!」
 バアルゼブブの言葉が言い終わらぬ内にローレンスの放った光の矢がバアルゼブブの腹部を貫く。
緑色の粘液がその傷口から滴《したた》る。
「……ところで……、一方儂は知略のほうには自信があってのう……」
しかし、巨大な蝿の怪物の言葉には、自らが致命的な傷を受けたにも関わらず一切動揺の様子がなかった。
 その言葉に反応するように部屋の内部が緑色に怪しく光を放ち始める。部屋を燻す煙が緑色に染まる。
 それと同時に、それまでシメオンを炎の熱から護っていた光のオーラが薄らぎ消えていく。
「くっ……」
 それまで感じなかった熱気と煙を一身に受けたローレンスは思わず呻いた。降りかかる火の粉が肩を焦がす。
「……儂の命が燃え尽きるその時に発動するようにしておいた……、これには気付くまい……。……小僧を誘き寄せる為、都を襲わせたのも儂じゃ。……小僧でなかったのは残念じゃが、おぬしを道連れも悪くない……」
 そう苦しそうに羽音を震わせると、バアルゼブブは斃《たお》れた。
部屋を包む炎がその骸を焼いた。


     受難

「おおっ……」
 ローレンスが教会に飛び込んでから暫くして、その懐に幼子を抱えたローレンスが火の海からその姿を現した時、シメオンの後を追って教会に辿り着いた国王や、固唾を呑んで安否を見守り続けていた僧達の間にどよめきが起こった。
 火焔立つ教会にひたすら祈りを続けていたマグダリアは、ローレンスに抱かれた赤子の姿を見るや否や、正気を失ったかのようにその傍らへと駆け寄ったが、業火に皮膚を焼かれたローレンスの姿に気付くや否や、雷に打たれたようにひれ伏した。
ローレンスは、ひざまずくマグダリアの両手に赤子を受け渡す。
 ローレンスがよほど大事に抱きかかえていたせいだろう、元気に泣き叫ぶ幼児には怪我や火傷の跡が全くなかった。
 一方幼児を庇い、生身で火の中をくぐり抜けたローレンスは、赤子を手渡すと力尽きたのだろう、その心身の力を失い、地へと倒れる。
 駆け寄ったシメオンがかつての友の半身を抱いた。
「……ローレンス!……おおっ、神よ……」
 自らの孫を救ったローレンスと、その奇跡に国王はぬかづき、祈りを捧げた。
「うっ、ひどい……、これほどの火傷では、儂らでも治癒のしようがない……」
「……とはいえ、神の憐れみじゃ……」
「破戒者にすら、その命の終焉に徳行の機会を与えられたのじゃ……」
 絶え絶えに息をするローレンスに歩み寄った僧達が各々に語り、祈りを捧げようとしたその時である。
赤子を抱え、涙に暮れていたマグダリアが突如シトーの前に身を投げ出したのだ。
「この子供はローレンス様の御子にございません。ローレンス様が都を去って数日後、情を通じた諸侯の子息との間に出来た子供でございます!」
そう語るマグダリアの涙に濡れた瞳は真実に輝き、その言葉に嘘偽りがないことを示している。燃えさかる炎を反射して、その体は赤く輝いた。
「なんじゃと……」
 シトーもその懺悔にはただただ言葉を失うよりなかった。
「ローレンス様が初めて宮殿を訪れ、私に取り憑いていた邪を退散して以来、私はローレンス様を恋い慕っておりました。……けれど、ローレンス様はその敬虔さからか私の気持ちを察していながら見向きもしてくださいません。……女の意地、執念。共に幸せになれぬならば、せめて私の手で不幸にしてやりたいと、その後内通した諸侯の子息が遊猟の最中悪魔に襲われ亡くなったとの報を聞いて、出来た子をローレンス様の子供と偽ったのです……」
「なんてことを……」
 娘の父親は頭を抱え、悶えて地にうずくまった。
「……けれど、私がこれほど卑劣な行いをしたにも関わらず、ローレンス様の慈悲の御心は私の罪を咎めず、それどころかその尊き命を犠牲にして、怖ろしき火焔の中から私の子供を救って下されたのです。……その憐れみの心、天の神が私にその化身を遣わされたのでしょうか。どうか私の身を引き裂いてください!煉獄に落とし、その身を焼いて下さい!ああっ……!」
 マグダリアは赤子を抱えながら、地に伏し、身を震わせて涙を流した。
「神の化身じゃ!」
「殉教じゃ!」
「罪びとの為にその身を地に堕とし、命を捨ててその子を救いおった!何たる慈悲!何たる……」
 僧達よりも驚嘆の声が響き、全ての感情を失ったが如き、その乾涸びた、皺に覆われた皮膚を涙が伝った。
 シメオンに抱きかかえられたローレンスは、懺悔《ざんげ》を聴くと、マグダリアへと視線を移し、ゆっくりとうなづいた。その皮膚は焼けただれ、髪は焦げつき、言葉を語ることも出来ない様子で、その命の灯火が今や消えかかろうとしていることは誰の目から見ても明らかだったが、夜空を仰ぐその瞳は、以前より一層美しい輝きを宿していた。
「王女マグダリアよ、そなたの罪はローレンスの尊き犠牲で贖《あがな》われた。救われた子を大事に育て、日々粛々と善行を積むがよい。……しても、自らを犠牲としたローレンスの行いは、年少にして既に儂らをも遥かに凌駕しておる……」
マグダリアに語りかけたシトーの乾いた頬をすら、遠い昔にその役割を失ったと誰もが信じて疑わなかった涙が流れた。
「……ごめんよ、ローレンス。……ごめん、疑ってごめん。……殴ったりしてごめん。ごめんよ……」
 シメオンはその間、誰の声も耳に入らないかのように、その涙で焼け爛れたローレンスの頬を濡らしながら、ただひたすらに詫びていたのだが、その直後ローレンスの焼けた衣服のその隙より、清らかな玉のような乳房が顕わになった時、
「っ……あぁっ…あぁっ…!」
 声にならない悲鳴を上げ、宙を仰いだ。
「見られよ!見られよ!」
「女じゃ!ローレンスは女じゃ!」
 シメオンの異変より事実を察したマグダリアとその父、そして王達は、驚愕の声と共に、誰からともなくローレンスの前にひざまずき、その頭を垂れた。
啜り泣きや祈りの声があちこちより漏れ、それがパイプオルガンと美しい賛歌の響きと相俟《あいま》って静寂の夜空を震わせた。
 こうして、ローレンスは頬を寄せ慟哭するシメオンの抱擁を受けながら、穏やかに、そして安らかにその横顔を見つめながら息をひきとった。


     奇蹟

 教会の炎に照らされ、紅に輝く星空を暗黒の闇が支配したのは、それから間もなくのことである。
 瞬く間に常闇《とこやみ》が周囲を支配する。
 暗黒を吐き出す闇の心中より降り立ったのは、破壊の翼持て漆黒に輝くルシフェルだった。
「堕天じゃ!」
「……人の世の終わりじゃ……」
 百戦錬磨の僧達よりも諦観の入り混じった悲鳴の声が飛び出す。
だがこの時である。ローレンスと、その肩に顔を埋め、慟哭していたシメオンが眩い光輝に包まれ、その光が空へと放たれる。
 一条の光は天空へ届いたのか、暗闇を突き抜けたその一点より光芒を放ち闇夜を照らす。そして、光がもたらされたその場所より剣を手にした気高くも美しい天使が光臨したのである。
「おおっ!あれぞ、大天使ミカエル!」
「ローレンスの気高い心がシメオンに再び知恵《ダート》の霊力を与えたのじゃ!」
「あの剣こそは堕天を切り裂く天界の宝器!」
 シメオンがミカエル召還の力を取り戻したことで、僧達の間に歓声が上がり、その士気は高まった。
「大戦以来よのう……」
 中空に漂いながらルシフェルは大天使に語りかける。
「神に抗いし反逆の徒よ。今宵決着の時!」
 ミカエルが斬堕の剣を両手に構えたその矢先である。
「放てーっ!」
 シトーの掛け声を合図に居並ぶ修道僧達が先制して渾身の強襲を行った。
燃える火焔に真空の刃、そして巨大な氷塊、あらゆる猛攻が至るところよりルシフェルへと襲い掛かる。
 ルシフェルの周りは噴煙に包まれ、爆音と詠唱の声は暫く鳴り止む気配がなかった。
しかし、
「無駄だ……」
 爆煙の中心地より漏れた億劫そうなルシフェルの声で修道僧達は思わず自らの試みを中断せざるを得なかった。
そして、数瞬の後ルシフェルを覆っていた煙幕が消えたその先には傷一つないルシフェルの姿があった。
「呪われた悪魔めっ!」
悔し紛れに修道僧の放った光線がルシフェルの纏う闇の空間に、吸い込まれるように消えていく。
「……鬱陶《うっとう》しい連中だ」
 そうこぼしたルシフェルの様子は、まるで身に纏わりつくダニを疎んじているかのようだった。
「やはり効かぬか……」
 シトーは唇を噛んだ。
「相手を用意してやろう……出でよ七十二柱《ななじゅうふたはしら》の上位悪魔!」
 ルシフェルが言葉を発すると、周囲の地面が黒く変化し、地底の闇から異形の魔物たちが浮き上がるようにその姿を顕わにした。
 ある悪魔は、巨大な蛇の脚部に美しい女性の他に蛇と猫、またある悪魔は犬、鷲、蛇を頭部に具《そな》え、またある悪魔は翼の生えた漆黒の馬に跨り、実体のない甲冑の塊として切れ味鋭い巨大な槍を手にしていた。そしてある悪魔は巨大な鷲の翼をした狂犬の姿をしており、この世の何より硬いであろうその犬歯で戯れに岩石を粉々に噛み砕くと獲物に狙いを付け、自らの能力で透明な不可視の存在となる。
その怪奇極まる容姿は様々だが、共通して言えることは居並ぶ全ての悪魔が、その気配だけで歴戦の僧達を戦慄させるような強い妖気を放っていることだった。
「人の世の興廃、この戦いにあり!」
 悪魔達の修道僧への突進と、士気を高めようとして発したシトーの声が開戦の烽火《のろし》となり、遂に決戦が始まった。
巨大な梟がありとあらゆる闇の秘術を駆使して攻防の優越を奪わんとし、通り道を猛毒に染める蒼き馬を操る百獣の王の面貌をした戦士が燃えさかる眼球より炎熱の黒線を照射しながら暴れまわる。翼を生やした直立歩行する鹿の怪物は天変を自在に操り、敵地に猛烈な竜巻を発生させ、肉を切り裂く雹を降らせ、巨大な鰐にまたがった老人の形をした悪魔がその手で翼を休めていた鷹を放つと、その鷹は瞬く間に鋭利な刃となり預言者を襲い、鰐の前足が地面を叩くと地割れが起き、僧たちを地の底に飲み込まんとする。
 対する居並ぶ僧達の中でもシトーら特に霊験あらたかな老僧達は自らの召還の霊力を以ってして天上より天使を呼び寄せ、翼持つ美しき戦士達は悪魔の硬い皮膚を貫く矢を浴びせ、あるいは槍でその五臓を抉《えぐ》らんとし、あるいは杖より邪悪な存在を脆弱にする聖なる光を放射して勇敢に戦った。
そしてある者は数体の岩石で出来た巨大な傀儡《くぐつ》を操り、またある者は僧達の周囲に悪魔の急襲を防ぐ鉄壁の障壁を構築する。光と闇が衝突し、弾け、打ち消しあって双方の勢力は拮抗し、凄まじい攻防が繰り広げられた。
 一方でミカエルとルシフェルは中空に浮かびながら、永年の因縁に決着をつけようと真っ向から対峙していた。
「何故人間を襲う!?」
 その剣先を邪の王に向けながらミカエルは問う。
「それが私の務めだからだ」
 ルシフェルは静かに応えた。
「禁じられた知恵《ダート》の力を人に与え、楽園から追い出し、その人間に牙を向けるのが務めだと言うのか!?」
「そうだ、……お主の務めが私を滅ぼすことのようにな……」
 煉獄の魔王の言葉と表情が、心なしか言い知れぬ哀愁を帯びたように感じられた。
「ならば、その務め果たさせてもらう!」
 そう叫ぶと、大天使は高々と剣を振り上げ、ルシフェルの眼前まで飛翔すると、その振りかぶった剣を振り下ろした。
 その速さたるや疾風迅雷の如く、さしものルシフェルさえ防ぎようもないように思われたが、退魔の聖剣がその身体を切り裂こうとしたその瞬間、ルシフェルの手に柄の長い三叉《さんさ》の槍が握られ、ミカエルの剣を受け止めた。
 剣と槍の衝突点より凄まじい衝撃波が生じ、空が震え大地が揺れる。
「来るがよい。我が同胞《はらから》よ……」
 ルシフェルは呟いた。
 堕天と大天使の戦いは壮烈を極め、目にも止まらぬ剣戟《けんげき》の余波で地は割れ、森は薙ぎ倒された。その様相たるや形容し難いが、敢えて例えるならば夜空に浮かぶ星々が互いに争い、その強大さを競って衝突しているかのようだった。
その速度・破壊力・剣技たるや互角で双方引けを取らなかった。いや、剣技に関してはルシフェルに一日の長がある感すらあった。しかし、戦いが長引くにつれて、この世の最も硬い物質をさえ貫くルシフェルの槍が磨耗《まもう》し、切れ味が落ちていくのに対して、ミカエルの手にした刃はルシフェルの槍との摩擦でより研ぎすまされていった。
 そして、遂にミカエルの振り下ろした必殺の一撃を柄で受け止めたルシフェルの槍の柄が切断され、防御の遅れたルシフェルの心臓にミカエルの剣が突き刺さる。だが、この時ルシフェルも切断された槍の先端の刃でミカエルの心臓を貫いていた。
 こうしてミカエルとルシフェルは互いの胸を押さえながら地に叩き付けられた。
 この時、修道僧達は、尽きせぬ生命力を持った悪魔の大群に対して劣勢となり、守勢にまわって負傷者も続出し、最後の砦となった結界も破られようとしていたが、ルシフェルが地に斃れた瞬間よりその力を失い、悪魔の足元に現れた黒い闇へと吸い込まれるように消えていった。
「おおっ!大天使様がルシフェルを倒されたぞ!」
「いやっ、これは相討ちじゃ!」
「大天使様!」
 心身の消耗も怪我をも忘れ、修道僧達はミカエルとルシフェルのもとへと駆け寄る。
「終わったようじゃな……」
 シトーはその様子を目にして溜息をつき、次いで労をねぎらおうとローレンスを抱きながら微動だにせぬシメオンの肩に手をやろうとして、
「何てことじゃ……」
 と悲痛な叫び声を挙げた。
 自らが霊媒となったミカエルの傷と、慣れない長時間の召還で気力を極限まで酷使したゆえか、ローレンスを抱きながらシメオンは息絶えていたのである。
世界を救った修道士の死に気付いたマグダリアや国王、セバスチャンも、身を切られるような悲しみで、ただただ涙にくれるのだった。

✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡✡

「おおっ……」
「堕天が生きておるっ!」
 倒れたミカエルとルシフェルの傍へ駆け寄った僧達の間からどよめきの声が上がったのはその時だった。
シトー達が視線を向けたその先ではミカエルの剣が突き刺さったルシフェルが立ち上がろうとしていたが、しかし、その動きは緩慢で、気高き表情には死相が現れていた。
「止めを刺してくれるっ!」
 その様子を見ていた血気さかんな僧達はルシフェルの息の根を止めようとしたが、
「早まってはならん!待つのじゃ」
 そう叫ぶシトーの声が、ルシフェルを葬り去ろうとはやる僧達を押し止めた。
シトーはルシフェルの纏う霊的気配の中に、もう禍々《まがまが》しい殺気が含まれていない事を察知していたのだ。
 力を失い、もう空を駆けることもままならぬ堕天は、その美しい十二枚の翼をわずかにばたつかせ脚を引きずりながら、抱き合い眠るように亡くなったシメオンとローレンスの傍らまで歩むと、こう語った。
「私が人間に知恵《ダート》の実を食ませたのは、善悪を知らず獣のように生きる人間を不憫に思い、その知恵の力で、より正しく、より幸福に人間が生きていけるようにという願いだった。だが、人間に知恵を与えて以来、人は自らの欲求に溺れ、互いに支配や争い、殺し合いを繰り返してきた」
「その通りじゃ……」
 ルシフェルの言葉に国王は肩を落とした。
「私が人間を襲うようになったのは、互いに争う人間達を罰するためだった。実際私は人を滅ぼす予定だったし、その為に自らを地に堕としたのだった」
「むむむ……」
 言葉を失ったシトーは唸った。
「しかし、今回のローレンスとシメオンの一連の出来事を見届け、私は人に知恵の力を与えたことは間違いで無かったと確信した。自己犠牲と他者への無償の愛は真の叡智なくしては行えぬ行為だからだ。今回、この者達は私の与えた試練を乗り越えた」
 その言葉の後、ルシフェルはミカエルの剣で貫かれた胸から流れ落ちるマグマのように赤い血のような液体を掌で救い、
「私のまたの名はサタン。その意味は試す者。それが神より私が託された使命」
そう言葉を発しながらその赤い掌に祈りを込めた。
次の瞬間、赤い血は輝ける透明の液体に変化し、ルシフェルは息絶えたローレンスとシメオンの口にその液体を含ませ、再びミカエルのもとへと歩んでいく。
「ごほっ……ごほっ……」
 命を失ったはずのローレンスとシメオンの喉より咳き込む音がしたのはそれから間もなくだった。
「おおっ!生き返ったぞ!」
「奇跡じゃ!」
 皆の喚起の声が波のように広がった。
〈生きてる……?僕は生きているのか……?〉
 自分が目を覚まし、息をしている事に計り知れないほどの不思議と神秘を感じながらシメオンがローレンスを見つめたとき、ローレンスもまた潤んだその瞳でシメオンを見つめていた。
〈ローレンスも生きている。僕達は生きている。そしてこれからも一緒に生きていくんだ!〉
 シメオンとローレンスはかたく強く抱擁を交わした。
 その時、ミカエルの亡骸の前に屹立していたルシフェルは、残された少ない生命を燃焼してミカエルの胸に刺された三叉の槍を引き抜き、再び自らの赤き血を不死の液体へと変化させ、傷ついたその胸に注ぐと、遂にその命の灯火を失ったのだろうか、地へと倒れた。
 一方ミカエルの傷はルシフェルの治癒《ちゆ》で瞬く間にその痕跡すらなくなり、ミカエルはやがて意識を取り戻すと、倒れたルシフェルを抱きかかえた。
すると、暗いはずの夜空が陽光に照らされたように明るく輝き始め、その際、一際輝いた光がルシフェルの傷ついた胸に照射される。
 そして、やがて神の与えた慈悲の心がルシフェルの傷も癒え、ミカエルと、今や紛れもない天使の光を纏ったルシフェルは、その翼をはためかせながら天空彼方へ吸い込まれていったのである。


     エピローグ

 都で起こった決戦より数ヶ月経過したある日。都では疎開から帰還した住民達やはるばる各地より集まった国民を相手にして、祝賀の儀が催された。
 都には修道僧達が呼ばれ、諸侯が各地から集められた。
 その日は国中が祭りとなり、都だけでなく、各地で厳かな儀式の後にはあらん限りの料理が振舞われ、人々は皆美酒に酔った。
 その儀式には幼児を胸にしたマグダリアの姿も見受けられ、その表情は命を助けられた子供を無事育てようという母の強い決意に満ちていた。
 しかし、そこにシメオンとローレンスの姿は見られなかった。
その日の夕方のことである。宮殿の広間で行われた贅を尽くした祝宴を抜け出した国王はいつもの小さな、棚に美酒の並べられた応接間のソファに腰を下ろしていた。
そこには国王だけでなく、その傍に佇むセバスチャンと、対面したソファに座るシトーの姿があった。
「お主の酒好きっぷり、数十年前とちっとも変わっておらんのう」
 修道院長は国王へ皮肉混じりに声を掛ける。
「何を言われる、シトー殿。修道院の教えにもありましたぞ。人の糧は竈より出ずるのみにあらずと……」
「誰が料理以外に酒も呑めと言った!魂の栄養、すなわち信仰の心が必要なのじゃ」
 シトーの指摘は厳格だったが、冗談と知ってか、怒りはこめられていない。
「はっはっはっ、わかっておりますぞ。それにしてもシメオン殿とローレンス殿が参加されなかったことだけが唯一の心残りじゃ……」
「さようでございますな……」
快い酩酊の中で国王の口を突いて出た残念そうな一言にセバスチャンは同意した。
「ふんっ、あやつらはもうとっくに破門じゃ。お主らがどうしてもと言うならこちらは関知せんが……」
 シトーが毒舌を交えて説明を加える。
「それも辞退されてしまいましては……止むをえませんな」
 続いてセバスチャンもシトーに相の手を入れる。
「今回人々が救われたのはシトー殿等のお力も去ることながら、シメオン殿とローレンス殿のお陰。こうやって儂らだけ浮かれ騒いでいるというのも申し訳ない気分じゃ」
「構うまい……」
 名残惜しそうな国王にシトーは言葉を返したが、
「それにしても……不思議じゃ」
 何かをふと思い出したように続けた。
「……何がですかな?」
セバスチャンと国王が思わず尋ねると、シトーは首を傾げる。
「ローレンスとシメオンは修道院の掟に従い、民へと戻った。……しかしながら不思議なことに聖地を離れ、俗習に従い俗世に還ったあ奴らの持つ預言者の力は弱まるどころかますますその輝きを増しておる」
「うーむ……」
 国王と執事は呻吟《しんぎん》した。
「儂はルシフェルが知恵《ダート》の実を人に食わせたことも、人が誘惑に負けて知恵《ダート》の実を食べてしまったことも罪であり、悪であると思っておった。しかし、違うのかもしれん。シメオンとローレンスが煉獄の道を辿ってこの世を救ったように、人が知恵《ダート》の実を食べたことも、神が与え給うた成長の為の試練だったのかもしれん」
 シトーが言葉を続け、
「……新たなる時代が到来しようとしているのやもしれぬ……」
「……なあ、そうじゃろバハククよ」
 最後にそう呟いた時、部屋の小窓から夕焼けの日差しが差し込み、三人を鈍く照らした。

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 ちょうどその頃、夕焼けに照らされたシメオンの姿は故郷の村、遠くに陽の沈んでゆく海を見渡せる、小高い丘の牧草地にあった。
 以前よりも頭数の増えた羊達が草を食《は》み、その周りを数頭の牧羊犬が元気に走り回っている。
 草の上に寝転がっていたシメオンはふと体を起こす。隣には美しく夕闇に映えたローレンスが座っていた。
 シメオンはふとローレンスに目をやる。ローレンスは今や、シメオンにとっての全てだった。
 ローレンスの美しい瞳もまた、その時シメオンを見つめていた。ローレンスにとってもシメオンは自らの全てだったのだ。
水平線より海と空を染めて輝く斜陽を望みながら、シメオンとローレンスは手を取り合う。
 二人の間を心地よい一旋の風が通りすぎた。


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 この物語の前には、既に過去に秘められた軌跡が眠り、そして新たなる歴史が始まろうとしている。バハクク、シトーらが先の大戦を駆け抜けた軌跡、そしてシメオンとローレンス、マグダリアの子らが歩む新たなる歴史である。これは新たなる作品の主題となりうるだろうが、この物語はこれで終じる。
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